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生の価値観 1
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霊性交流
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3 思想・小論文

 中高生諸君よ
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 死の観念「孤独と恐怖」1

 死の観念「孤独と恐怖」2

 随筆親と子の絆

 現代少年少女の深層

 随筆日本人の東洋性

 三諦説 空・仮・中

 禅・哲学用語

 随筆 禅の六祖「慧能」

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(説法十住心は順次更改掲載)
 中道
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助詞「は」と「が」
の相違の統一的説明
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禅・哲学用語
出版記念会テキスト(原本);11th,Feb'94
禅と哲学での基本用語解説(一部抜粋)
改訂HP版1;Dec'02


 註;出版記念会において行われた討論会・主題「我とは」での出席会員の理解を深めるために予想できる禅哲学用語のテキストを配付した。それを原本としている。
 記念会パネリスト(討論者)は、古田紹欽・元北海道大学教授(仏教学者、鈴木大拙・松ヶ丘文庫長)、西村惠信・現花園大学学長(文学博士)、山田邦男・現大坂府立大学教授(文学部長)、司会・北巳 零がした。なお本文中の「上田説」は京都大学名誉教授・上田閑照先生の説である。



  ■禅

 有声(ゆうしょう)の画・無声の詩(うた)
 禅では、書を有声の画、禅画(水墨画)を無声の詩と言う。

 師家(老師)
 僧や在家のものから師と仰がれるに相応しい学識と人徳を備えた禅匠。

 見解(けんげ)
 修行によって得られた禅僧の考え、あるいは所見などを言う。

 見性(けんしょう)
 性は仏性を指すが、その仏性を見ること。

 公案…
 先の優れた禅僧のことばなどを課題として修行者に与え、悟りに導くために工夫させるが、この課題を公案と呼ぶ。

 接心(せっしん)
 一般的には、一定期間、座禅に専念すること。精神を集中し心を散動させないことである。

 喝(かつ)
 大声を発することを言うが、喝自体に意味はない。臨済義玄の喝は、つとに有名。

 相見…
 相見(あいまみ)えること。見(まみ)えるとは対面することで、禅では特に師家と師弟の契りを結ぶ意味がある。

 作務(さむ)
 作は営み、物を作り働くことで、禅の重要な修行の要素になる。
 日天作務は、作務を単なる労働としてではなく、心身の凝りを解き、動きの中で「生きた自己」を捉える禅の動的な表現。

 夜座…
 禅僧は早朝から座禅に入るが黄昏時、または開枕(就寝)の後の白主的な座禅を言う。

 提唱…
 師家が修行僧や居士(こじ)に向けて教義を提示し、悟りへ導く。

 規矩(きく)
 作法、きまりのこと。禅院で所定の作法にしたがって行われる茶事を茶礼と言うが、この時の作法も言う。

 清規(しんぎ)
 禅院では清浄を最も尊ぶ。その清浄なる禅僧が守る規則。

 新到(しんとう)
 新米の雲水(行雲流水の略)。新到には、入門の関門として厳しい庭詰、旦過詰(たんかづめ)が待ち受けている。

 疑団…
 禅を始め仏教では「あれではない、これでもない」という疑念(疑問)がでてくる。これを徹底し、その揚げ句、悟りを得る。
 盤珪永琢(l622年生)は不生(ふしょう)禅を唱えて、この疑団を起こす「公案」そのものを否定した。しかし盤珪は、後の白隠と共に臨済宗の中興にとって大きな力となる。

 法嗣(ほうし)
 禅、仏教では師資相承によって仏法を嗣(つ)ぐ。この正式な後継者。

 通(い)わじ通わじ…
 鈴木大拙の生涯変わらぬ思想で、このことばを多く語った。この言葉を発することは、無言の行において口にしていることと同じで、元より矛盾である。この思想をどう解釈するかが、大拙を理解することにつながろう。

 即非の論理…
 「金剛経」に由来する術語。簡単に言えば「非に即して…」という意味で、否定を肯定する論理である。大拙はこれをよく使っている。


  ■「西田哲学」の用語.解説

 註;西田が使う哲学用語、及ぴ用法は一般には難解である。したがって、ここでは説明し尽くすことはできないが、研究したい方は道場での「研究会」に参加し、理解を深めていただきたい。

 「私」…
 西田が言う「私」は、「すべての経験的知識には、私に意識せらるる、ということが伴わなければならない」という「私」である。この時の「私に…」の「私」は、主語的統一ではなく、述語的統一でなければならない。そして一つの点ではなくて、一つの円でなくてはならない。物でなくて場所でなくてはならない。これが、「私が…」ではなく、「私に…」ということである。

 場所…
 カントの「私が考える」「我、考えう(後述)」という「私」、つまり、この「私が意識せらるる」という「私」は、物が映される、また現れる場所だと西田は考える。それが「意識」というようなことである。

 自覚…
 場所としてある意識、それは「私」の…というように、初めから「私」としてあるのではなくて、意識されている、というそのこと自体、それが「私」ということである。そういうような「私」が自覚ということに他ならないのである(上田説)。「私」が自覚するのでなく、自覚が「私」ということである。

 知る…
 西田は、知るということをこのような自覚から考えたのである。

 「我、考えう」(Ich denke)
 カントのことば

 「我は、我ならずして、我である」…
 これが「(絶対)矛盾的自己同一」の原態になっていく。

 「いっそう深い根底」…
 西田が哲学論集で使っている。

 経験 …
 われわれが経験する際、同時に何を経験しているかというのが分かっている(あるいは理解している)はずである。その意味での自己理解まで含めて経験と呼ぶが、西田の言う経験は、これとは違う。
 西田哲学での大きな特徴は、出発点で経験ということをどう考えるか、その経験を西田は「純粋経験」として考えたのである。「純粋経験」が自覚になり、その自覚が場所につながる。この自覚は、単に「我の自覚」という形ではなく、「純粋経験が自覚したような自覚」である(上田説)

 註;西田の考察、思想などについてはHP「我とは」(後日掲載予定)、およびセミナーテキスト「講義 西田の純粋経験より1」講演録「深く生きる」('02年版)他を参照。



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