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随筆 禅の六祖「慧能」 
原本改訂版;Apr'98
改訂HP版1;May'98
改訂HP版2;Sep'02

 註;仏教用語は旧漢字の使用が多いが、それのない時はやむを得ず「カタカナ」表記をしている。これはおよそ4年半振りに改定したが、一部に不都合がある。
 

 (Apr'98のセミナー)本来なら「飢えた魂」の続きのはずだったが、今回は少し趣を変えて述べたい。3月のセミナーで六祖*慧能(638-713)についての質問があった。いつかは説明したいと考えていることだったので、今回はその慧能について大まかに触れていこう。
 私は禅の専門家ではないが、それでも正確を期したものにしなくては、慧能に対し申し訳ないし、禅の専門家や老師たちに叱られるだろう。その意味で出来るだけ正確に述べることにする。詳しくは、機会を得て禅の先生方、たとえば*西村(現・花園大学学長)先生や*古田(紹欽)先生をお招きして一度皆さんへ語っていただこうと考えている。
 慧能に触れるにはどうしても初祖から六祖までの法系も説明しなくてはいけないし、「六祖壇経」という説法集を一度通らなくてはいけないだろう。

 *慧能…‥638-713.新州(現広東省)生まれ。
 *西村惠信…‥当時、花園大学副学長。京都大学文学部博士課程修了。文学博士。他を参照。
 *古田紹欽…‥元北海道大学教授、文学博士。禅学者。長年、鈴木大拙・松ヶ丘文庫長を務める。当時82才を過ぎて、尚かくしゃくとしていた。先年没す。



  中国禅宗の法系
 禅は普通、菩提達磨から始まる(始祖)とされる。その法灯は第二祖;神光慧可へと継がれる。慧可から第三祖;鑑智僧粲(本来の「サン」字がなく、粲は新漢字である)、第四祖;大医道信、そしていよいよ慧能の師である第五祖;大満弘忍へと法灯が継承されていく。
 ここで大きく二つの潮流が生まれる。一方は現代日本の禅の基礎となる南宗禅としての第六祖;大鑑慧能の誕生である。そして他方、北宗禅の祖となる玉泉神秀(じんしゅう)である。神秀の北宗禅は、中国においてその後すたれたようだ。しかし一方の慧能の法灯からは青原行思、南嶽懐譲の二人の傑出した弟子が生まれる。

  註;中国禅宗の「始祖から六祖まで」の法灯をまとめると次のようになる。
 始祖1達磨→ 2慧可→ 3僧粲→ 4道信→ 5弘忍→ 6慧能⇒(青原行思、南嶽懐譲)
 
 青原行思の系統からは洞山良价と曹山本寂という弟子が生まれ、日本曹洞宗となった(曹洞宗の名は、この二人の頭文字より名付けられたものだ)。また同じ青原から、雲門文偃(うんもんぶんせき。雲門宗の祖)や法眼文益(法眼宗の祖)などが生まれている。
 もう一方の偉大なる慧能の法脈となる南嶽懐譲からは、ことに著名な禅師(ぜんじ)が多く輩出されるに至った。中国禅史の中でも、群を抜いた大物ぞろいである。その南嶽の系統からは馬祖道一、百丈懐海(えかい)と南泉普願の二人、そして百丈懐海からは黄檗希運と、臨済宗の祖・臨済義玄が生まれた。そして臨済の法脈は黄龍慧南(黄龍派の祖)と楊岐方会(楊岐派の祖)の二派へと流れる。南泉普願からは「趙州無字」で有名な趙州従シン(註;シンの常用漢字がない)禅師が出る(詳しくは禅宗系図チャートを参照)



  「六祖壇経」の疑惑
 六祖壇経にはいくつかの疑わしき面が残る。
 1900年、敦煌において多くの埋蔵書が発見された。その中に六祖壇経もあった。それとほぼ同じ時期に、京都の興聖寺からも発見された。そのいずれも弟子の法海の記とされるが、どういう弟子であったかはっきりしない。また敦煌本の六祖壇経も慧能の説法かどうかも確かではない。
 慧能を一躍有名にし「禅の祖」と言わしめたのは、神会(じんね。670-762)という弟子によってである。それまで全くの無名だった慧能は中国、*南の果て、新州の単なる説法者であった。

 唐・玄宗の時代、神会(じんね)が慧能の思想を長安で説法を始めるまでは、都(長安)ではだれも慧能を知らなかったのである。弘忍(ぐにん)の弟子、神秀が則天武后に認められ、朝廷たちの尊敬を一身に受け、それを基盤として都では神秀系の禅僧が有名であった。神会が都で説法を始めたころは、神秀はすでにこの世の人ではない。神会は、神秀の禅を異端とし、慧能があくまで弘忍の法脈の正式な後継者だとし、慧能の禅が*正伝だと主張したのである。この主張は大成功であった。その後、禅はほとんど慧能の法脈を継ぐことになった。六祖壇経は、慧能の説法のスタイルをとりながら、南宗禅の正当化を主張している。だが、もしかするとそれには神会の思想が多いのではないか?と。

 *南の果て…‥これを田舎者と侮蔑して嶺南(れいなん)と言う。
 *正伝…‥しょうでん。正しい教え。正しく伝わる教え。



              六祖 慧能

 さて、少し慧能について語ろう。父は新州の百性で家は貧乏であった。貧乏な彼は学問をするだけのお金もないから毎日柴刈りをし、それを売って生計をたてていた。そうしたところへ、たまたま客の唱える「金剛経」を聞き、慧能は悟りを開いたと言う。その客が黄梅山(おうばいさん)の弘忍のところから来たと聞いて、すぐさま黄梅山へ向かった。その二人の出会いの問答がまた興味があって面白い(敦煌本・鈴木大拙編)

 それを現代風にリライトしてみよう。
 五祖は慧能に言う。「おまえはここに、何をしに来たのか。この田舎ものが!」と。明らかに五祖弘忍の言葉には田舎者への侮蔑(ぶべつ)が込められている。しかし慧能は少しも臆せず「私は嶺南人、新州の百性だ。本当に遠くから来て和尚を拝するのは、仏になる法を求めてだ」と。続いて五祖は「おまえは嶺南の人で、野蛮人ではないか。そんな野蛮人が仏になれるか!」と責める。慧能が、すかさず反論。「人間には南北はあっても仏性には南北などない。野蛮人の私と和尚とは違うが、仏性に差別があろうはずがない」と見事に言いのけた。
 たぶん、北方は中国文化が盛んで、嶺南は辺境の地で野蛮であったというのがその当時の常識だった。北の文化人である弘忍は、わざわざ嶺南の人に仏性を認めたくはなかったのかもしれない。しかし、この問答は明らかに慧能の方に歩がある。
 慧能はいっこうに風采の上がらぬ小男である。その彼に弘忍は、米つきの*作務(さむ)を命じた。作務とは、禅において日々行う奉仕作業のことだ。この作業は、単なる労働ではない。心身の凝りをほぐし、この動きの中で生きた自己を見ていく。生きた自己を見ていくのも禅であろう。これを日天作務と言う。顔は醜く背は低い、しかも無学であった米つき男の彼を仲間は軽蔑していた。逆に尊敬を集めていたのは、後の北宗禅をたてた神秀である。神秀は慧能とはまったく違ったタイプで、優秀で背は高く、男前であったらしい。
 *作務…‥作は営み、物を作り働くことで、禅の重要な修行の要素になる。日天作務とも。


  伝衣(法の伝承)事件
 数カ月後(梅原猛の説では8カ月後)に事件が起きる。禅における法の伝承は「師資相承」と言われ、禅師(ぜんじ)から一人の弟子へと直接伝えられるのだ。始祖達磨から脈々と伝えられた禅の正法を、五祖弘忍は一人を選んで、そのものへ法を伝え、後世に残す必要があった。その最も中国的な方法としては、門下生に詩(*偈)を作らせる。その詩によって、師は悟りの境涯に至ったものを選び、そのものに法と袈裟を与えるのである。弘忍はそれをした。
 *偈…‥短い詩文。

 神秀の偈は次のようなものだ。
     「身は是菩提樹、心は明鏡の 台の如し
       時々勤めて払拭し、塵埃有らしむるなかれ」
 これは門下生の間ですごい評判になった。米臼ばかりついていた慧能にもその評判は届く。それを聞いた慧能はさらりと、何のこだわりもなく次の偈を作った。
     「菩提樹本無し、明鏡亦 台に非ず
       本来無一物、何処にか塵埃を惹かん」(興聖寺本)

     「菩提樹本無し、明鏡亦 台無し
       仏性常に清浄、何処にか塵埃有らん」(敦煌本)
 
  先の偈は興聖寺本であるが、後の敦煌本とは第3句、他が違う。

 この偈について、学者の間で多くの疑問があるようだが、ともかくこれを見た弘忍の門下生たちは驚いた。この偈はすでに慧能の非凡さ、大器を表わしていると。むろん五祖弘忍にそれが解らぬはずがない。だが弘忍は敢えて大勢の門下生の前に慧能を呼びつけ「この偈もやはり悟り得たものではない」と言ったのである。弘忍は決して愚昧(ぐまい)なのではない。ここに法の芽をつまず、門下生らの不満を抑えた五祖弘忍の深慮がある。
 その夜更け、五祖弘忍は慧能を呼び、法と師資相承の証である袈裟を渡し、密かに逃がしてやるのである。慧能は故郷へ向かった。その後、故郷でおよそ16年もの隠遁生活をする。翌朝、黄梅山では忽然と消えた慧能を、門人たちはさまざまに憶測したが、知るのは五祖のみである。これが伝衣(法の相承)事件である。

  二人の偈

 もう一度、神秀と慧能の偈を見よう。まず初めの神秀の偈である。
 「身は菩提樹のように清らかで、心は磨き上げた鏡のように清い。時々拭き払って塵やごみのつかないように」と言う。優等生的な、かなり当たり前の答えである。つまり「*大乗起信論」にある「清浄なる*法身(ほっしん)」の考え方だ。しかし私には、あまりにその通りで、そのようにするべきではあるが、どこか禅ではないような違和感が残る。少なからず禅というイメージにそぐわない。それはどちらかといえば、禅と言うより道徳的な立場を言うのではないか、と。つまり道徳性のことではないかと言う違和感だ。
 道徳的な立場には自ずと限界がある。限界があればむろん自由ではない。しかし禅は道徳性や道徳的立場を教えるのではない。単なる道徳性をぶらさげているようなら、すでにそれは禅ではない。むしろ禅には道徳を超えた自由さ、自由な心、自由な生き方を教えるのではないか、と思う。

 禅も密教の系統に属する。それら密教や禅には自由無礙な心が最もふさわしいが、私には、どこか本能寺で信長を討った明智光秀の優秀さ、頭脳の切れ方を思わせる。
 それは神秀の禅の境地からもそう見えるが、光秀もまた鋭い頭脳の持ち主であった。全てに不可のない二人の優秀さゆえによるかもしれない。頭の鋭さが自己の思考の方向性を決定(どちらかと言えば規定)している。神秀も光秀もまた諸国を巡って見聞を広め、多くを学んでいる。当代随一の見識を持っているのは自他共に認められ、それが彼らの自信となっている。常に他の人間の上を行き、自分を威風堂々とさせている裏付けはその自信による。

 *大乗起信論…‥大乗仏教の論書で、如来蔵思想の系統にある。2世紀頃、仏教詩人・馬明(めみょう・アシヴァゴーシャ)の作と言われる。
 *法身…‥(s;)dharma kaya.「ほっしん」と読む。三身の一つ。真理(法)を身体としているものの意。同義には法身(ほっしん)仏、自性身、法性(ほっしょう)身など。部派仏教時代、説一切有部では仏陀の肉体に対して、仏陀の説いた法や十力などの功徳を指した。大乗仏教になって絶対的な真理を法身と言うようになった。三身とは法身、報身(ほうじん)、応身(おうじん)である。


 しかしそういう自信などというものは、自己の想いが土台となって作られている。想いは自然発生的に思考の一定の方向性を求める。これは明らかに禅ではない。またその思いが崩れ、自信が失せるとプッツンと切れてしまう。まるで現代の中高校生と同じように、精神的にもろく弱い傾向を持つ。そういう人間は一端切れてしまったら、とても理性では抑え切れるものではない。
 神秀が光秀のように反逆したというのではない。そうではないが、光秀の反逆には、それにもあったと思う。性向として二人はどこか似ている。私から見れば、およそ禅の修行者とは思えないほど神秀の偈はつまらない。神秀と慧能の人間的魅力については後に述べることにしよう。では、慧能の場合はどうか?。

 私は比べると神秀よりそういう慧能が好きだ。そのために二人を比較し評するに少しは偏りがあるかもしれない。その偏りは善悪と言うより次のような感性的なものであって許していただけるであろう。
 その第一は、これまで慧能についてはさまざまに知ることは出来ても、神秀についての詳しい文献や資料などが不足していることである。やはり圧倒的に慧能について知る機会が多い。そのため、なじみが薄いせいかもしれない。
 第二には、私は若い頃に二人の偈を読んで、私自身の中で二人の境涯の差がはっきりしたことだ。明らかにその違いが窺える。しかし私自身の神秀・慧能観への不均衡を是正し、述べるつもりだが、それを差し引いても良いものは良いと言わざるを得ない。
 第三には、慧能に好感を持てる最大の理由は、生い立ちからくる「無学で貧乏」という環境的な条件である。これには誰もが救われるような思いと希望を持たせてくれる。一般的であり、ごく大衆的な親しみと希望が持てるのである。慧能の偈にもあるように、田舎者(ここでは貧乏も指すのだろう)で無学であっても、「仏性には(南北の)隔てがない」という希望である。それが古今の大衆には必ず救われるという希望を与えることと、庶民の出が非常に親しみやすい。おおかたの人間にとって、そういうところが何も身構えるものがなく、すんなり慧能の温かさが染み込んでいくのではないか。そういうことで、慧能が好きなのである。


 慧能の偈に移ろう。
 慧能は神秀が人間の身と心を、形あるものに比喩していることを否定している。
 「菩提というのは樹ではなく、亦明鏡も台ではない。身心、全てが仏性であって常に清浄である。その、どこに塵埃がつくと言うのか(菩提樹本無し、明鏡亦 台に非ず 本来無一物、何処にか塵埃を惹かん)」というわけである。
 慧能の偈は柔かに聞こえるが、だがそれには未だ形に捉われている神秀への手厳しい断罪があるのではないか。つまり「仏性に形などはないんだ」と形に捉われている神秀を断じ、慧能自身、全ての限界を突き破る自由というものを告げるのである。慧能が表わす大いなる自由…。そこには全くというほど道徳性へのこだわりもなく、仏性に塵埃が着くとか、着かないとかの浄不浄の分別もない。
 黄梅山に集う多くの五祖弘忍の門下生は、果たしてどれほどこの道理を得ていたのか?。おそらく形を否定しながら形に入り、自由を求めながら束縛された不自由な心で修行を繰り返していたのではないか。不自由な心はすでに禅ではない。その点で慧能に優るものはいなかったのだろう。


  二人の人間性

 少し神秀と慧能の人間性を探ってみよう。まず神秀である。姓は李氏、八尺ほどの長身で秀眉であったらしい。長年諸国を周り、老荘、経論などを収めた博学者である。50才で五祖弘忍の門に入り、日夜たゆまぬ精進して6年目である。五祖は、神秀の力量を認めていた。神秀は人がうらやむほど全てに優秀であり、不可はなかった。
 では慧能の場合にはどうか。慧能は全くその逆で、風貌「短陋(たんろう)」であったと言われる。つまり顔は醜く、背が小さいのである。慧能は嶺南の出身で、しかも無知で無学である。むろん姓などありはしない。社会的価値観で言えば、神秀に比べ慧能は明らかに劣る。神秀の長身、秀眉、博学と、慧能の短陋(たんろう)、野蛮人の地の出身を比べれば、およそ価値は世間的に評価されるものは何もない。
 慧能が五祖に偈を表わした時、たったの8カ月しか経ってはいない。それに比べて神秀は6年の研鑽(けんさん)である。全ての価値観から遠ざかっていた慧能は神秀の敵ではなかろう。しかしそういう慧能の全てを知りながら、五祖弘忍は慧能に法灯を継がせるのである。なぜ、弘忍は慧能を選んだのだろうか。やはりそれには、慧能の偈にその要因があると思う。先の慧能の偈をもう一度読んでみよう。

    「菩提樹本無し、明鏡亦 台に非ず
       本来無一物、何処にか塵埃を惹かん」と。
 
 先に述べた道徳性の立場と、宗教的立場との相違を慧能はしっかり捕え、それを表わしている。道徳性は、あくまで相対世界であって、しかし宗教は相対世界ではない。宗教は絶対の自由世界である。つまり道徳に生きることは絶対的自由の世界には生きられない。しかし、禅とは絶対の自由を説くものだと私は思う。とすれば慧能の偈こそ、その自由の世界、絶対の自由を告げるものではないか…と。
 皆さんもこの点をしっかり*記憶把住(きおくはじゅう)してほしい。
 五祖弘忍もまた、形の捉われない人であった。世間的な価値は、ほとんど慧能には味方しない。誰がどう見ても神秀の勝ちである。しかし五祖は、そういう見た目や形にこだわることはなかった。ここに六祖・慧能が誕生することになったのである。
 *記憶把住…‥記憶したことを保持し、いつでも応用できるように鮮明にしておく。



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