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 随筆親と子の絆

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随筆 親と子の絆  
改訂;Aug'97
改訂1;Sep'99
改訂HP版1;Jun'02


 次の三点について、私の思うままに書いてみることにしよう。第一には現代日本での「親と子の絆」はどうか。そして今、求められている強い父権(親の権利)の復活はあるのか、現代日本人の親子関係を探っていく。それには多分に日本の文化や文明ということに深く関わることだと思う。第二は、その文明という観点から日本人の「エスニシティーethnicityと少年刑法犯」をテーマにしたい。そして最後に、先の文明に関係して日本人の宗教観について述べていこう。


親と子の絆  

 今ほど親子の信頼や情愛の希薄になっている時代はない。本来家族というのは、それらの絶対的といえる信頼や情というもので構成されるものであるはずだ。少なくても家族はお互いに信頼し、愛しあい慈しみあうものであろう。ところが現代の一般家庭や社会生活をみると、本来あるべき姿ではなくなっているように思う。

 今、世界の国々は、豊穰なる物質文明の恩恵と、そして自由と「幸福らしさ?」を享受している。幸福らしさ?というのは、他人から見れば幸福に見えると言う意味だ。しかし、コンピューターを駆使したインターネットなど、かつてないほど情報の高度に発達した現代に到っても、なお精神的には未熟で立ち遅れている。全ての国家というのではないが、特に日本にはその傾向が強いのではないか。
 文明はすべからく一朝一夕に成せるものではない。文明の発達には国民の総意的な一つの思想が必要である。その国民の膨大な時間と知恵とが要るのである。その国の文明の優れているか否かは、後世の人間による評価を待たねばならないが、しかしその時代時代の国家の高度な政治的目標があり、方針があって、それにそって進むもののはずだ。

 文明とは、単に物質的、科学的に発達した高度情報化社会をいうのではない。そればかりではなく、古代から現代までの精神的発達段階を当然のごとく含むのである。したがって目に見えるものばかりが文明というのではない。物質と非物質、もしくは個物と精神、有と無、科学と形而上学など、そのいずれも相和し均衡されて、はじめて価値ある文明といえるのではないか。その均衡が崩れる時、一つの悲劇が生まれる。その悲劇とは、精神的貧困による心の荒廃である。すなわち精神性の敗北であるが、それは悲劇となる。

 歴史哲学者の*ヘーゲルがいうように、歴史はヨーロッパのそれのように一元的に繰り返されることはない。世界の歴史は、多元的である。それは*ハイデッカーとともに実存哲学の創始者となった*カール・ヤスパースは、現代を「第二の枢軸時代」と呼んでいる。 そのヤスパースは、ヘーゲルのそれとは全く違う多元的な歴史哲学である。世界は一つの思想とか文化に同一されるものではなく、多くの思想、多くの文化があると認めている。その思想や文化は、すでに壁にぶつかっている。今の思想や文化では時代の流れにそぐわない。だから今、世界は新しい思想を求めている、と言う。ヤスパースは、現代を「第二の枢軸時代」と捉えるが、ヤスパースのいう「枢軸時代」とは何を言うのだろうか。
 *ヘーゲル…‥Geog Wilhelm Friedrich Hegel(1770-1831). ドイツ古典哲学の運動をある観点から完成させた。ヘーゲルは客観的観念論に立ち、弁証法を駆使して膨大な内容を思弁的体系にまとめた。講義録「西田の純粋経験より」参照。
 *ハイデッカー…‥Martin Heidegger(1889-1976).ドイツの哲学者。シリーズ前「死の観念」1、「説法・十住心」講演録、その他を参照。
 *カール・ヤスパース…‥Karl Jaspers(1883-1969).北西ドイツ・オルデンブルグに生まれる。精神病理学、心理学者。後に自らの主著「哲学」において実存哲学を構想、命名した。私の友人、北野教授はカール・ヤスパースを専門とする。



 哲学者などが唱える枢軸とは、それ以降の人間を支配する高度な思想が、世界の中に生まれることを言うようだ。
 それにしたがえば、紀元前800年〜前300年頃までの約500年の間に、その後の人類の精神を支配した偉大な思想が生まれた。たとえばソクラテスや釈尊、孔子や第二イザヤ(イエス・キリストの先駆者といわれる)などは、ほぼ同時代である。ヤスパースは、この頃を「第一の枢軸時代」としている。なぜこの時代に集中するかのように、これほど偉大な思想が生まれ得たのか?。
 ヤスパースは、その原因を、それ以前の高度に発達した都市型文明においている。たとえばその時代は、今の日本と大して変わらないような物質文明の爛熟(らんじゅく)した時期であった。農業技術が発達し、これまでになかった高生産性を得て都市が発達した。
 次に国家の成立である。しかしそのような高い物質文明によっても、世界には人類を導くほどの精神的原理というものはなかった。だが、精神性の枯渇から、やがて世界のそれぞれに異なる精神的指導原理が別々に生み出されていったのである。それを「第一の枢軸時代」と言う。
 それからすると、まさに現代の工業科学文明は、かつての農業文明に比べて何ら劣らない巨大な文化革命、あるいは文明の黎明期と言える。今、物質文明の爛熟している時代である。それはヤスパースのいう「第二の枢軸時代」の到来である。しかし、これほど文明の発達した現代に到ってさえ、未だ世界人類を導く新しい精神的原理は生まれていない。ヤスパースはそれを嘆き、そして混沌の世界に向けて一つの助言をする。
 「今、時代をリードする新しい思想は、単に西洋ではなく、他の国々の文化を積極的に学びとることによってのみ生まれる」と。これと同義な論理に世界的な禅学者・鈴木大拙のものがある。
 このような高度に発達した物質文明に我々は当り前のように浸っている。一見、全てのものが自由と幸福を謳歌しているようにみえる。しかしその一方で、古来より培われてきた日本民族の優れた気質や思想は、今や地に墜ちてしまっているのは明らかである。それは、とりも直さずエスニシティー(後述)の堕落ということになる。そのエスニシティーの堕落した現日本の社会で、はたして親と子は共存できるのだろうか。現代的にリライトして述べよう。

 現代の親たちは何かと子供に遠慮しすぎる。それは自分に自信がないとも言えるし、十分に子供を理解してないとも言える。また子供の反抗が怖いのかも知れないし、何も言わないのが愛だと考え違いしているかも知れない。何も言わないのは、傍から見れば、子供を信頼しているように見えるが、決してそれではない。あくまで偽善的なだんまりである。自分は「いい親でいたい…」その一心からだ。わが子に「おまえを十分理解しているよ、信頼しているよ」というふうに思って貰いたい。そのためのポーズだ。そこに子供の苛立ちがある。子供には解るのだ、ちっとも解っていないことが…。
 解らなくても解った振りをし、子供を理解しているような素振り、それら一つ一つが頭にくる。「超ムカつく」のだ、子供には。この言葉を良く聞いている。大人のやることが全て偽善で、それを正当化していく。親は、いつでもしたたかに偽の善意者を装っていくのである。

 子供は下らない偽善より、さらに深刻である。「親にとって自分は本当に必要なのか?」「自分がここにいることが、意義のあることなのか?」と自分の存在自体を悩み苦しんでいるのである。上辺だけの似非(えせ)家族に、親への優しさや思いやりを持てというほうが難しい。そのような家庭にいったいどれほどの固執する理由があろうか。父が、いや母も心から僕を愛してはいないと気付けば、自分の居場所は失われてしまう。もはや家庭に落ち着く場所はない。子供がそういう家族に未練を残すだろうか。それは先ずなかろう。
 子供にとって、自分の家が貧乏なのは辛い。しかし多くの少年少女は、決して貧乏だから非行を重ねるのではない。貧乏だから家庭内暴力を奮(ふる)うのでもない。触法少年犯罪のほとんどは、経済的に恵まれている中流階級、もしくはそれより上の家庭に育っていることでも解る。いわゆる小さい頃から金銭的に何不自由なく育っているものが多い。したがって非行の根因は、金銭的な原因からではないということは確かだ。非行の主な原因は、大人や社会に対しての不信感、自己の存在に対する意義や道理の不透明さによる苛立ちである。
 さらには家族の偽善的な言動がある。その偽善的なポーズに嫌気が射し、落ち着く場のない苛立ちから、子供は自分の存在を確認したいという抑えがたい衝動に駆られるのである。弱者への「いじめ」も「おやじ狩り」も、また「援助交際」も根源的にそのような抑え切れない苛立ちがあろう。「自分には何もない、この世にいるのかいないのか、それさえ解らなくなってしまった」。だから今、自分は真っ白なのである。しかし何かで自分を探し、自分を確認しなくてはならない。だからやるのだ。たとえ、それが非行であったとしても、自分の存在を確認する唯一の方法であった。悲しいことに、少年少女らはそこにしか自分を求めていくことができなかったのである。この不幸なる子供らを、大人はこのままにしていいのか。そうではあるまい。何とか救わなくてはいけない。ではどうすればいいのか?。


父権の復活   

 この子らを救うには、教育現場と家族との協調的大奮戦の覚悟が要るだろう。これは真っ裸の戦いである。人間どうしの肌と肌のぶつかり合いなのである。むろん教育する側の資質の向上も計らなくてはならないが、家庭において親たるものは毅然とし「父親とはこういうもんだ」と知らしめる必要がある。
 子供は社会の中に、そんな頼りになる先生や愛情深い父親を求めている。厳しくても、心底温かい父親が好きなのだ。無口でも自分のことは解ってくれる、そんな父親を望んでいる。年に一度や二度、父の恐ろしい雷が墜ちてもいい。普段無口な父が怒る、怖いが、それが本当に自分を心配し、愛されていることを確認できる。父は雷を落とす、たまにぶん殴る。そういうことでもいいではないか。必ずしも暴力がいけないというものでもなかろう。その後で我が子を懐深く抱きとってやればいい。父のたくましい胸に、また母の優しい温もりに包んでやればいいのである。それが父としての威厳であり、権利である。誰に遠慮することもない、そういう強い父権を復活させなくては、子供に見放される。
 そうした父権によって結ばれた親と子の信頼、心の絆というものはそう簡単に崩れるものではない。だが一方的に、いつも子供が苦しい時ばかりではない。時には親も悩み、苦しむこともある。仕事の失敗や対人関係のもつれによってずたずたに傷つく場合もあろう。その時、素直に悩んでいる自分の気持ちを子供に話してみることも大切ではないか。親の苦悩する心の内をさらけ出し、子に知らせるほうがよい。虚心な親の態度にあらためて子供は感動するだろうし、勇気を与えるに違いない。人生は楽しいことばかりではない、苦しい時こそ、支え合う家族が要る。その心の苦しみを共有し共感し合ってこそ家族と言えるのではないか。悩みや苦しみを分け合い、共有することが、子供にとって親の存在がいっそう近くに思えるものである。
 子どもに心配をかけたくない気持ちは解るが、親の苦しんでいる状況を知ること、心の内を打ち明けることは、よりいっそう親子の絆を深めていくだろう。親と子の間に、一切の見栄や体裁などは必要はない。時には子供に心配掛けるのも悪くはないし、互いに気持ちをぶつければ、どんなに軽くなるか知れない。もしそれで親子の関係にひびが入るほどであれば、始めから家族の絆はなかったと思っていいだろう。
 毎日ガミガミ怒り、口を開けば勉強したかという親は、ここで考えを改めるべきだ。そんな怒り方は、慈悲でも愛でもない。それは単なる親の自我、自己愛でしかない。親自身の欲を満足するため、子供を怒っているのであって、決して子供の将来の幸せを考えてのことではない。親の見栄や世間体、プライドを満たすためだけである。それを子供は率直に見ている。

 たとえ勉強できなくても、いいではないか。人間には能力の違いがある。頭が悪いと怒るばかりではどうにもならない。怒ることの多くは、子供を萎縮させ自信を失わせるばかりだ。自分の子供時分を考えてみるがいい。あなたと、そんな大差はなかろう。なぜなら、その親にしてその子ありだからだ。それも違うというなら、こう言おう。馬鹿な親が子を生み無知な子育てをしたら、子供が阿呆になっても文句は言えまい。
 親と子の絆は、高度な教育や躾ばかりで築けるものではない。最終的には親と子の心の結ばれ方であり、お互いの信愛や慈悲による。それには先のように親としての厳格なアイデンティティーidentityがなくてはならない。いかようにしても切れることのない太い絆の形成は、慈悲、あるいはギリシャ的アガペー(agape)によって結ばれていくものだ。心と心のぶつかり合いは、真の人間性の表現である。心を裸にし、裸と裸のぶつかり合いは、人間性の確認である。絆はその後に築かれていくものである。「お父さんは、こうだったんだ」「(おまえは)こうして欲しかったのか!」と。子供は「そうか、お父さんは僕を解ってくれていたんだ」と。そこで初めてお互いを深く理解できることになる。心の成熟もこれで違ってこよう。

 無知な親は、子供の遊びを下らないものとして真剣に考えてはいない。遊びは時間の無駄と思っている。ところがそうではない。
 子供は勉強よりも遊ぶことが本分である。遊びを知らない子は、身体も心も健全ではあり得ない。逆に言えば、遊びに夢中になれる子は、情操心や集中力が発達し身体も育ってくる。というのは、遊びというのは、精神的なバランスをとりながら筋肉を鍛えていく。したがって運動神経や反射神経も鋭くなっていく。精神的なバランスは、集中力を強めていく一方で、これが情操的に貴重な働きをするのである。
 子供が遊びの中で、他人のものを取ると、取り返されたり殴られたりするものだ。すると、勝手に他人のものを取るとすぐ取り返され、殴られるということが解る。ここで、ものごとの善悪と殴られる痛みとを同時に覚えるのである。その痛みが解れば、同じことはしない。痛いからしたくないのである。子供同士の喧嘩も、運動神経系統を発達させ、同時に痛みをしっかり記憶させる。これがヨーガ*修習(Abyasa)であり、生理学では学習するという。その修習は、人の痛みを知る一つの手掛かりとなる大切なことである。人の痛みを知ることによって他人を慈しみ、弱者をかばい、優しくいたわる心が生まれる。
 *修習…‥(s;)Abyasa.何度も同じことを繰り返し行を錬磨し修得していくこと。仏教では薫習と言う。


 人間の痛みというのはそれだけではない。身体に受ける痛みのほかに、心の痛みもある。いくら自分が悪いにしても、殴られると悲しいし悔しいものである。ここで人間の悲しみの心や悔しさ、怒りの心が芽生える。これはこれで精神的発達の過程では、当然なくてはいけないものである。それがどのように変化し、成長するかは周りの人的環境による。
 遊びの何げないことの中に、これだけ多くのことが含まれてくるのである。だから私は、子供の遊びは大賛成である。自然を相手に、自然の中で泥だらけの遊びをさせるがいい。
 今は竹槍を作り、木で刀を作ってチャンバラをして遊ぶ子はほとんどいない。これを田舎者と侮ってはならない。実は、竹槍や刀を作る工夫が、子供の創造性を飛躍的に育んでいくのである。創造性や直観力を養うには、できるだけ幼い頃のほうがよい。子供の遊びは多いに結構なことだ。
 工夫することができない現代の子らは、買ってきてすぐ遊べるテレビゲームが主である。進歩しているというにはあまりにお粗末ではないか。そこで覚えることは、せいぜい要領のいいゲームの運び(進め)方ぐらいで、そこに独自性や工夫などない。ゲームの中では全てがヴァーチャル(Vertual)であり、それでは人の気持ちや痛みなどは解らないのである。気が楽といえば楽だが、だがそれは子供にとって少しも有益なことではない。
 このように子供の遊びは、心(精神)と身体の成長を促すのである。これができない子は実に不幸である。その不幸なる子を作っているのが実の親であっては、どうにもならない。子は遊ぶことの楽しさを知らずに、成長していくことになる。その子が社会に出たら全てが初めてで、まるで井の中の蛙がいきなり外へ放り出さた時のようにびっくりするだけだろう。それゆえ物事の判断は正鵠(せいこく)を射ず、どぎまぎして泣き出すかもしれない。そういう若者を私は大勢知っている。
 子供の遊びや喧嘩も大切であると同時に、大人はそれぞれ確たるアイデンティティーを持って心と心をぶつけ合い、人間の原点をさらけ出していくことである。
 もはや今となっては、それによってしか根本的な解決は難しい。こうした結果、親と子の間には確実に、深い絆が結ばれていくのである。


エスニシティーと少年刑法犯   

 「エスニシティー」(ethnicity)とは何か?。この稿について、私は度々述べたが、もう少し述べたい。
 エスニシティーとはドイツ語で言えばEthosであり、またギリシャ語のエトスと同義である。エスニシティーは民族精神、あるいは人間社会の気風や習慣などを形成する原点となる精神を言う。
 ヨーガでは原点となる意志の形成力を行(samskara)という。それが身口意、三つの業の基礎となる。ただエスニシティーという場合には、民族、民族性(ethnos)とかと一旦切りはなして使う。民族集団、その集団の属性やアイデンティティーidentity(自己同一性、もしくは自我の同一性)の在り方を言うのである。したがって、私が「日本人のエスニシティーとは」と問う時、それは日本人のアイデンティティーは如何なるものか、とその在り方を問うているのだと考えて欲しい。
 今、日本の社会は犯罪のるつぼと化している。しかも凶悪化し、残虐極まりないものが急増している。残念ながらその数は、成人とほぼ同数の少年犯罪が占めるのである。

 朝日新聞('97.8.8)によると、今年上半期だけで刑法犯として補導された少年は69.646人に達したとある。昨年同期に比べ20.5%も増えている。そのうち39.0%は中学生の恐喝、そしてひったくりが35.1%となっている。

 土師淳君の殺害事件から最近になって、初めて文部省が「幼児期の教育の重要性」を見直すことになった。遅きの感があるが、今からでもいい。是非とも早く幼児期の道徳や情操教育を施すべきである。何しろ幼い頃の潜在的な行(samskara)、あるいはエスニシティーというものは、一旦入り込むと滅することが極めて困難なものである。いわゆる普段よくいわれる「三つ子の魂、百まで」というのがそれである。
 それを幼いうちに教えておく。ヨーガや仏教の戒の一つ「不殺生戒」がある。生けるものへの生命の尊さ、弱者をいたわる心や、ものごとの判断基準などを家庭や幼稚園、保育園などで連携的総体的にその教育に取り組まなくてはいけない時である。それにはかなり長い時間を要するわけだが、しかしそれが将来の同じ類いの犯罪を食い止める、唯一最良の方法であろう。だが、それだけでは現在の少年少女らは救われない。「親と子の絆」を築く前にはどうするのか?。

 まず第一に、少年法の改正である。これにはさまざまな意見が噴出するだろうが、それは大いに結構なことだ。その上で慎重に進めるべきである。なぜ少年法を改正する必要があるかと言えば、16才未満の少年らは、すでに少年法の欠点を知り尽くしている。
 16才になるまでは、いかなる犯罪を犯しても罰せられないことを知っている。逆に「憎いものを今のうちにやってしまえ」ということを考えてもいる、と言うのである。これは成人犯より恐ろしいことではないか。これが嘘だと思うなら、近くにいる少年らに聞くがよい。「少年法を知っているか?」と。事件を起こした少年のほとんどは言うに及ばず、おとなしそうな子供たちにも聞いてみるがいい。犯罪に関しては、のほほんとした大人より、よほど詳しい。
 それだから残虐極まる重要犯罪には、欧米並みに成人と同じく対処していく態度を表明しなくてはいけない。罪を犯したら、子供と言えどもその責任をとるんだということを、はっきり少年たちに認識させる必要がありそうだ。もちろん少年刑法犯罪には、これまでのような年令制限は意味をなさない。そういうふうに改正した法の下では、14才でも犯罪への抑制力が働くだろうと期待できる。それだけの判断力を持っている。
 第二には、慈悲である。慈悲はキリスト教的には愛であるが、慈悲をそう簡単に考えてもらっては困る。日本人の愚かなものたちは、甘やかすことを愛だと思っている。ただ優しいことが慈悲だと思っている。これは誤謬もはなはだしい。何という無知であろうか。
 慈悲というのは、ただのセンチメンタリズム(sentimentalism)や、下らない感性ではない。感情や心情に溺れることが慈悲ではない。そんな下らないことを釈尊が言ったのでもないし、むろんイエス・キリストが説いたのでもない。そんなことと誤謬されるのは非常に苦々しい。もしその程度のことであれば、苦行を重ねた末の釈尊の悟りと言うのは、いったい何であったのか。罪といわれるほどの罪でもないことで磔刑(たっけい)を受けたイエスは何であったのか。
 慈悲、愛とは、仏教やキリスト教における一つの理念である。また真理とは、道徳的倫理的を指すものではない。それをはるかに超越していくものである。それゆえに真理と言えるのである。単なる道徳や倫理であったなら、その理は大して難しいものではない。釈尊は血を吐くほどの、キリストは血を流すほどの無情世間の労苦の上に得た真理は、かつてない希有なる人類の精神的指導原理なのである。それを無知な人間は、何一つ解らないまま、慈悲だ、愛だと喚(わめ)くのである。
 しかし、慈悲や愛というのは本当のところ、心の清浄透徹した人間によってしか、それは未分不可知なものである。だから不浄な心や観念しか持たない人間が言うことはこの際捨ておこう。ともかく今の場合、子供たちがこれから幸せに生きていけることを大前提に、大人らは熟考を重ねる必要がある。
 如何に素直な子供本来の心に帰していくべきか。どうしたらその子は幸せになれるのか。全てはそこに集約されていく。集約され絞られていくその一点から、その方策を考えていくべきである。そこには、時に非情なほどの慈悲があってしかるべき、潜んでなくてはならない。冷酷と思えるような愛がなくてはならない。
 多かれ少なかれ、私が先に述べたごとく、少年刑法犯は心を深く傷つけながら、それでも愛を求めていることは確かである。「愛とは何か、愛することとは何か?」と。そして「今ここにいる自分は、いったい何か」と。自分の存在自体に対する恨みや不自然さ、存在の意義を知りたがっている。それらの解答を強く求めているのである。だが子供たちは、これまでその十分な解答を得られなかったのである。だから大人は、それぞれの立場に立って、明快な解答を与えられるよう最善を尽くすべきである。明快な解答によってのみ、子は更正できるのである。その解答によってのみ、子は自分の非を素直に認めていけるのだ。その後の人生そのものを決定する極めて大事な思春期に、真実、心を開き素直になることは、子供にとって大きな生きがいや人生の目標を見つけることと変わりはない。子供たちにこの機会を与えなくてはいけない。
 したがって慈悲は、まずは収容される施設、たとえば教護院や鑑別所での更正プログラムも重要な課題となろう。その慈悲の思想、考え方のプログラム導入を強く望むのである。
 そのためなら、私の立場から施設においてさまざまな行法や瞑想を指導することもやぶさかではない。そういう機会が必ずくると思う。もちろん潜在的に心の奥底に潜む人間への不信感などは除去しなくてはならない。それがまだ残されている間は、子供が本当に心を開くことはない。だからそういう機会があれば、深層催眠や、あるいはカルマヨーガなど、そのほかの多くの秘密行法で潜在因子を滅していくことが必要だと思っているし、それが可能である。それがタントラヨーガ秘法の凄さである。

 そして慈悲の思想は、普く広がっていかなくてはならないのである。押し並べて一般社会で現に生きる少年らの非行を未然に防ぐ意味では、それは格別な意義を持ってくる。全ての人間に共通することだが、特に非行や犯罪を犯す少年らは、愛に飢えている。愛することも愛されることもない、全く愛を知らない孤独者なのであり、結局は寂しいのである。どんなに強がりを言っても、いくら酒や非行に溺れても、決して寂寥(じゃくじょう)たる孤独感は捨て難い。気が付くと、いつもそこには影のごとく、べったりと付きまとっている重苦しい孤独があったのである。


  影は語る
 影は写すものがあり、写されるものが同時にあるからその現象として起こる。写すものは、たとえば明りや光源である。そして写されるものは今の場合、あなた自身、人間や物であり、光を遮るものである。
 写されるあなたがそこにいる。それは現実としてそこに存在している唯一の証拠である。影は生きている限りあなたと共にあり、瞬時も離れたりしない。影はあなたと共に動くからだ。その影は、いつもあなたに言うのである。「私がいるから」と。いわば影というのは、あなた自身の分身である。その分身はあなたの全てを包み、あなたの裏面をそっくり表わしている。考えようによっては愛しいではないか。しかし多くの人間どもはそうしたことにも気付かず、いつも寂しいと悲しむ。たしかにそれだけでは寂しいかも知れない。なぜなら人間は愛し愛されるものだからだ。その影自体に愛はないのである。
 だが、影は語るのだ。「君だけではないんだ、結局、人間の生死の時は一人なんだ」と。つまり、人はどんなに愛する人に対しても、本能的欲求は代わってやることができないのだ、と。たとえば腹が減っても、あなたが食べたら腹を減らしたものが満腹になるだろうか。眠りたくてもあなたが代わって寝ることでその人が眠らなくても済むだろうか。そんなことはできない。生まれる時も、また死する時も自分で始末を付ける外ないのである。したがって、人は何を言っても人間の本性は孤独なのである。だから人を愛し、愛されることを望むのである。人間として人を愛し、人間として人に愛されることによって孤独を忘れようと懸命なのである。しかし、それで孤独が消えたわけではない。ただその孤独に浸っている暇がないだけである。孤独でべったりと重く張り付いた寂寥感を消すことのできる、ただ一つの愛がない時、人間は罪を犯していく。人を愛したいから、人に愛されたいから…。

 そしてまた、少年刑法犯の深層意識には、常に他と自己との疎外された孤独感がある。その孤独感は社会との隔絶を生み、それが歪んで全ての愛を拒絶する。そう簡単には愛を受け入れにくく、自分の心に無断でズカズカと入ってくる愛、強制的な愛を拒み続けていく。そのことがますます人間に対しての不信感を募らせる。全ての人間が信じられない。人間不信ゆえ、もはやどこにも自分の存在する場がないのである。自己存在の場や存在する意義がないとすれば、幽霊と同じ、自分はこの世のものではない。それが子供には虚無的な透明人間として写るのである。親や兄弟、学校の先生やクラスメート、近所の大人たち、その中に少しでも自分への愛が見えたら、愛を実感できたら、そんなことはなかったはずだ。「僕は、全く愛の見えない、存在を否定された世界にいる。何としても自分というものを確認したい…」、それが生きてる証であったかも知れない。このように心の深層には、愛の欠如がある。その少年には、だれ一人として真の慈悲を施すものがいなかった。
 その子らに人を信じ、愛する喜びを教えなくてはいけない。そして人に信じられ、人に愛される幸福を知らしめる必要がある。単なる倫理的道徳的な問題などではない。人間の生きることの根幹に関わる重要な事態である。これを大人たちがまず十分に得心し、大人たちがまず心の訓練に励み、それを教えていかなくてはならないのだ。そのような練磨なくして、子供の心を真に捉え、硬く閉ざされた扉を開くことはできないだろう。今の少年犯罪の傾向は、そうした日本人総掛かりで取り組むべき、最も憂慮すべき事態であろう。そうしてこそ、日本人は「エスニシティーの堕落」から這い上がれるのではないか。そういうところに、私は日本人の「エスニシティー」の根源があり、その根源の堕落を是正する必要があるだろう。


日本人の宗教観   

 ところで私はこうも思うのである。日本人の「エスニシティーの堕落」は、信仰する心に欠けているからではないかと。そういう側面があるのではなかろうか?。特に日本人の多くは、闇雲に宗教は嫌いだと言う。それには現代の宗教アレルギーも多分にあると推察できる。これまでのさまざまな宗教団体に対する悪い風聞や、実際の犯罪をみるとそれも無理からぬことのように思う。がしかし、宗教が嫌い、また宗教アレルギーのものは、それで祈るということをしなくても生きられるのだろうか。もし何かの折に祈ることは、自分の意思に矛盾することになる。
 残虐な地下鉄サリン事件を首謀した某教団のほか、さまざまな宗教団体や宗教法人の金銭的トラブルや何かしかの代金をめぐって、新聞に取り沙汰されることが多かった。それ以来、われらの「北巳 零…」も少なからず全て同類として、誤解を招いてしまった。

 他人は無責任にいろいろと中傷批判を楽しんでいる。まるで敵の大将か鬼の首でも取ったかのようにである。その後がいけない。自分の発言に責任ある態度で望めないのだ。
 日本は憲法を遵守する法治国家である。したがって言論の自由や信仰の自由などを認めている。いくら言論が自由だからとしても、知識外の正否も確かめずに同調し、そこの少し増しなものは宗教論をぶち挙げるのである。殺人や暴力を加えることは決してよくないが、それが見も聞きもしないで相手を断定する愚かさがある。それを知っているものなら宗教論やその団体を言うことも仕方がない。しかし門外漢が、なんやかやとうるさく喚く。それも非常におかしな話である。
 彼の偉大な哲学者・西田幾多郎は、西田自身の全集第九巻で「哲学者は哲学の真理について言うべきで、哲学者が仏教の真理について言うのはいけない」という意味のことを言っている。哲学者にして、そうである。まして物事に無知なものがとやかく言うのは非常に説得力が薄いし、馬鹿げているのである。
 そのことはもう終わりにして、「エスニシティーの堕落」と宗教観に戻ろう。
 とにかく宗教を頭っから毛嫌いしている日本人は多い。しかし宗教は文化である。その文化を日本人は愚かにも否定する。世界のあらゆる国々で、それは文化の領域として扱われる。
 日本も例外ではない。宗教課は文化庁、または地方自治体の場合には文化局宗務課などに統括されている。法律的には、現に文化の範疇(カテゴリー)になっている。
 私は、外国へ行くと必ず聞かれるし答えることがある。「あなたの宗教は何か?」「私は…です」と。これを聞く外国人は、私に精神的バックボーンがあるのかないのか、ということを知るためである。あれば食事を誘うにしてもそれが誘う側のマナーである。肝心なことは、相手の信じる心の基礎としている宗教は何かを知ることで、それがその人の人格さえ解るのである。今はあまり見かけないが、私がアメリカへ行った時などは「無宗教です」と言うと軽蔑されかねない雰囲気があった。きっと、そういうものは信頼に値しないと考えるのかもしれない。外国では逆に、無宗教の日本人を真から尊敬されることはかなり少ない。上辺では世辞の一つも言うだろうが、心底より敬うことはないだろう。
 無宗教は、無信仰と同罪となる。宗教の原点は信仰にある。信仰は、ただひたすらに神仏を信じること。たとえばアッラーを信じ、シヴァ神やヴィシュヌ神を、イエスや預言者ムハンマドを信じていく敬虔な心の発現なのである。それは頭の善し悪しとは一切関係ない。敬虔な人は、取り立てて自慢もしないが、かといって卑屈になってもいない。なぜなら、心には普遍的絶対的な信仰があるからだ。それが自分が生きる上での最大至上の幸福となるからだ。

 無宗教も無信仰も個人の自由である。自由でよいが、その自由のために日本人の宗教的目覚めは、かなり低いように思う。いわゆる多神教であって無節操、無秩序の汚点を極める。たとえば正月には神社仏閣に参詣し、ヴァレンタインと称してチョコレートを贈る。盆と暮れは神道と仏教の混合となり、キリスト教的クリスマスには、他の行事抜きでケーキだけが残される。そして墓参りは儒教から取り入れる。日本はとにかく各種宗教の混合体である。チョコレートやケーキを贈ることは、祝うことよりも遊びであって、本来の感謝や祈ることには全く関心を示さない。それが現代の日本人だ。
 遊びや行事を生活の中に取り入れることは、それはそれで結構だが、それだけで本来の目的を見失っていくのは、イエスも寂しかろう。日本人はあちらの神、こちらの仏様と気分次第で変わりようが早い。つまりそれは、信仰というものではなく、一つの信条とか観念がないことになる。浮き草のように…。
 世界の文化という視点でそれを見比べると、おそらく日本人は、文化のカテゴリーである宗教に対する観念が全く確立されていないと言える。それに加えて宗教の立場が公然と認められていないのは、至極残念なことである。日本人はどこかで、自分の信仰を直隠しにしているところが見られる。他人の眼を恐れるように、してはいけないもののように隠すのである。
 人間には、憲法に保証される信仰の自由がある。自分の信じる道にそれほど自信がないのであろうか。ないならば仕方がない。だが自分の信仰、信じる道を誰に言われることもないわけで、堂々と信仰に対して自信を持って良いのではないかと思う。万が一、誰かに何かの中傷を受け、それで崩れる程度ならば、明らかにそれは信仰というものではなかった、ということである。信じるということ、信仰心はそれではない。それを他人の所為(せい)にするものがいる。その心が間違っているし、卑怯である。それを愚痴れば、それは自己の愚かさを披瀝(ひれき)していることになる。全て自己の責任において、信じるものだからだ。間違ってもそれは他人の所為ではなく、その責任は自分にのみある。

 かように日本人の精神の根底には、薄っぺらい信仰しかない、というのが多くの人に当てはまるであろう。いわゆる行(samskara)とエスニシティーというものは堕落し、古代からの文明を飽食したあげくに、ホモモーベンス(homo movens)に走る現代人の顔が浮き彫りにされているのである。そして、そこに多神教的考え方に密着する無節操が、今破壊的な勢いで濶歩(かっぽ)しているのである。
 私と同じく釈尊にしても、末法時代の到来を現実にして、少なからず嘆息を漏らしているのではないか?、あるいはそれを過ぎて微笑みを浮かべているのかもしれない。
(この項終り)



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