解脱というには、真理、つまり真の理法(ことわり)、仏陀の言う*ダルマというものを具有しなくてはならない。真理は下らない知識などではなく、智慧でなくてはならない。修行によって得られる解脱の智慧である。むろんその智慧には、普遍的妥当性と、論理的な*必然性とが具備されてなくてはならない。したがって真理と言えるには、特殊ということがあってはならず、全ての衆生を根源から救済するものでなくてはならない。
解脱の智慧は特殊であってはならない。一部には通用し他に通用しないということなら、それは特殊な人間のみを利するのであり救済ではない。特殊は一定の方向性を持つ。方向性を持つというのは偏りがある。偏りのあるものを真理というのではない。その理の類いでは、本質的に無知無明の衆生は救われない。衆生は一部の人間を指すのではなく、ほとんどの人間である。その特殊な網に掛かるのはあくまで特殊な人間たちである。それは多くの衆生を救済するためのものではない。こういうファンダメンタルを理解できずに、口から泡を吹きながら盛んに「真理」を唱える。何と言う愚直さか?
*ダルマ…‥(s;)dharma.サンスクリット語では通常「法」すなわち「真理」、あるいは「存在」を指す。仏教も同義に使う。たとえば「諸法無我」の法は、存在を直に表すわけだが広義には「法」である。
*必然性…‥論理には、自ずと求められる論理的正当性がなくてはならない。
初心者からの質問で多いのは「解脱とは何か」である。次いで多いのは「真理とは何か」という、実に愚かしい質問である。たまに「どうして苦行するのか」と。
単に言葉で表せることなら、誰も修行せずに済む。タントラが単にそれだけのものなら苦行することはなお愚かしい。
言葉には自ずから限界がある。コミュニケーション手段としての*限界がある。全て、言葉によってそれが正確に伝えられるなら、学問だけの*修習(abiyasa)だけで済むはずだ。たとえば大学の仏教学や哲学の教授には、禅の修行も瞑想も必要ないのである。ところが私の知る多くの著名な哲学者や仏教学の教授方は、極めて真摯に参禅し弁道している。たとえば、世界的に知られる京都学派哲学の西田幾多郎にしても、禅を極め「寸心居士」号を得ている。特段に秀でている哲学者がなぜに参禅弁道するのか。禅の神髄は、あるいはダイナミズムは言葉ではないからである。つまり主観客観を超えた絶対世界を言うのであるから、言葉で表し尽くせない。
*限界…‥拙著「さとりへの道」(コミニュケーションとしての言語)参照。
*修習…‥(s;)abiyasa.仏教では薫習を指す。同じ行を何度も繰り替えし修練することが自然に身に着くことを言う。
言い方を変えよう。
あなたはこれまで、言葉で自分の思いを正確に相手に伝えることが出来ただろうか。その時、思い違いやコミュニケーションの途切れ(断絶)は全くなかっただろうか…。そんことはあり得ない、とあなたにも解っているはずだ。
愚問を発する多くは、無知を象徴している。ましてそのような下らないとしか言いようがないことに答えるグルであれば、それも全くの破壊された無知者としか言いようがない。終局では、恐ろしい妄想に取り付かれた異常者の類いである。それを*臨済義玄の四賓主で言えば、「客、客を看る」であり、グル弟子共に最も劣る場合である。師弟間の最上の縁は「主、主を看る」と言うことでなければならない。
むろん解脱とは、先のように言葉に頼り切って導くものでもなく、沸き起こる智慧は単なる直感でもない。智慧には先のような条件的なもののほかに、人間や生き物の根源、いわゆるリアリティ(根底)に根ざすものでなくてはならない。それが在って初めて理法、もしくは真理と言えるのである。それは正しい修行の実践によってのみ唯一成就が可能である。
*臨済義玄…‥(-866)唐の時代、中国臨済宗の祖。四賓主は「日本人の東洋性」その他を参照。