ヨーロッパ最高位のキリスト教指導者           
Notker Wolf O.S.Bとの会談を終えて
原本;6th,May'95
改訂HP版1;Nov'03


 ■以下、(*)印は注解を示す(全文書共通)。(S;)はサンスクリット語英語表記。


 先月(4月)19日、連日報道される「某教団」地下鉄サリン事件で騒然となっている日本を、ある種の憂いを覚えながら離れた。そして約13時間後にフランクフルトのホテルに入った。夕方からの雨の降りしきる中、旅行社の支店長と会い、現地のさまざまな情報提供を受けた。
 フランクフルトで二泊した後、私と中村はミュンヘン経由で*セント・オッテリエン修道院(St.Ottilien)へと向かった。

 *セント・オッテリエン修道院…‥St.Ottilien.ドイツ南部・ミュンヘンより車で約1時間半の距離にあるベネディクト派修道院。世界各地に支部があり、それを統括している。キリスト教派の中でも厳しい修行を重んじる派として知られる。同敷地内にある付属高校の学力は、数学部門でドイツのトップクラスと聞いている。


 21日昼過ぎ、ゲスト係のP.Franziskus(フランチスクス)氏は、ズーッとわれわれの到着を待ちかねていたらしく、着くとすぐに昼食となった。私は、その日午後4時より1時間半に亘ってNotker Wolf(ノトケル・ボルフ)*院長との会談の機に恵まれた。これは予定外のことであった。

 *院長…‥正式には、Notker Wolf O.S.Bの称号を持つ。

 ノトケル院長はミュンヘンより戻って早々、長年逢瀬を待ち焦がれていた恋人のように、応接室に入るなり私の手を握り締めたのである。そして「お待ちしておりました」と、何度も私の手を握る院長の手はとても温かく、眼は例えようもなく優しく微笑んでいた。
 ノトケル院長は素晴しい方である。キリスト者の持つ独特の優しさに溢れ、そして低音の効いたゆっくりとした話し振りは、多くの人を魅了せずにはおかないだろう。ある種の荘厳さに包まれた「院長応接室」の中で、こうして二人の会談は始まったのである。

 初日の会談のテーマは「日本人とドイツ人の倫理的宗教観」、そして「キリスト教と仏教の学び」についてである(前半のみビデオ収録済)。この内容については講演会などの機に述べたい。そして2日目(22日)は「キリストの言う施しと仏教の布施」について約1時間に亙って語った。

 日本人の多くは、連日の某教団事件一色の報道で「布施」と聞くだけで身震いするだろう。しかし「布施」本来の意味は修行の要であって、衆生の「執着を無くす」ための最も大切な行である。

 あなたは勘考え違いしてはならない。布施することによって感謝されるのではない。布施をさせてもらえること、布施できることに感謝すべきなのである。
 布施の行為で、施す者(施者)は奢(おご)ってはならない。一方で施しを受ける者(受者)は、僻(ひが)んだり、また卑屈になることではない。なぜなら、受者は相手に施す絶好の機会を与えたのだから。
 この機会は、修行者にとって得難く、非常に意義あることだ。布施する機会に恵まれないのは、基本の修行徳目である「*離欲」を達成することが出来ない。その「離欲」なしで解脱を望めようか。

 布施には、施者から受ける者へと「何か」が媒体する。この「何か」が清らかでなくてはならない。つまり清い想念からの施す「もの」でなくてはならないのである。これを「三輪清浄」と言うが、ノトケル院長はキリスト教でも同じだと言う。そして更に、ドイツには「貧しいもの、助けを求めるものを救う」という厳格な国民の法律的*義務があると。
 いずれにしても「布施」や「救い」と言うものは、心の底から沸き上がって来るものでなければならない。そうでなければ、「感謝の押し売り行為」と大して変わらないことになり、行為自体、何の重さも尊さもないのである。

 *離欲…‥仏教、またヨーガにおいても欲は厭離すべきものとする修行の基本徳目である。欲の大小に関わらず、それ(欲)があれば「心の清澄」を得ることは極めて困難である。清澄の無い心に、ましてや解脱は起こり得ない。つまり欲と言うのは一定の方向性を持つ。方向性は偏りであり、到底、遍く拡がる深淵な真理を知り得ることは出来ないのである。激しく求める愛欲を、ヨーガではKamaとし、仏教では貪愛、喝愛として、さらに煩悩を強めるもので厭離しなくてはならない。このような欲のある世界だから「*欲界」である。
 *心の静澄…‥(s;)prasada.「清澄」と同義。サマディ(三昧)はこの「心の静澄」がなくては成功しない。サマディは、統一し静かに澄んだ心の状態にしか訪れない。これを妨げ、かき乱すのは欲なのである。ヨーガスートラ「三昧」の章では、「他」を対象とした「慈悲喜捨(仏教の四無量心)」の念想をするによってプラサーダが訪れるとする(1-33)。
 *欲界…‥三世界の一つで、三(世)界とは欲界、色界、無色界である。欲界はすなわち六道(地獄、餓鬼、畜生・動物、阿修羅、人間、天上界)などの輪廻する世界を言う。
 *義務…‥ドイツのみでなく、インドには古代から人間が生まれながらにして負うべく債務(s;)Linaを果たす義務が有るとする。明確に、救いを求めるものへの救済義務を果たすこと、あるいは自他共に救われることを唯一解脱の道と考えるところに、それぞれの独特な思想風土の根拠が表れている。


 修行しようとするあなたは、決してそのような転倒した卑しい心ではいけない。キリスト教で「救わないと言うことは、キリストさえも救わず、見放したと同じことだと考える」と言う。この素晴しい思想をもう一度熟考すべきだろう。



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