原題「深く生きる」9th.Sep'02改訂追補
セミナー;21th.Sep'08
今、世界は精神性貧困の時代であり、やがて人類は自ずと滅亡へのプロセス(過程)に入ろうとしている。それは人類だけではない。動物、植物の生きるもの、存在するもの全てに降り掛かる滅亡への危機は、単なる予測やジョークではない。
古代に栄えた「四大文明」も、ほんの僅かな足跡を残して今はなく、大地自然も破壊されている。その最大の元凶は、「人間が生きる上での価値観」、すなわち人間の「生の価値判断」の変化である。
西田幾多郎は、著書「善の研究」の中で、「生きる上での物事の価値基準は、『*社会的生の価値判断』に因る」と言った。
テーマ「生の価値観」は、先きのセミナーテキスト「心の闇と貧困性」の続編でもある。「生の価値判断」とは人間が社会的生活を営む上での「価値観」を指すのである。これより数回に亘り、述べていく。
■註;ここでは「社会的生の価値判断」より一般的に解りやすい「生の価値観」と言い直して使う。今は「価値判断」「価値観」の義にはあまりこだわらない。
■本文中の一部に「タントラヨーガと人生哲学1、2」および「死の観念 孤独と恐怖」シリーズなどとの重複がある。
■以下(*)(**)印は、他文書同様の注解を示す(共通)。また(S;)はサンスクリット語読み。
*社会的生の価値判断…‥「死の観念」「生きると言うこと」HP版他参照。
見えないものへの憧憬
l'essentiel est invisible pour les yeux 「*大切なものは、目に見えない」
これは良く知られている*サン=テグジュペリ作の童話「星の王子さま」の一文である。
前文略
…キツネと別れるときになり、王子は自分がキツネと「仲良く」なっていたことに気付く。別れの悲しさを前に「相手を悲しくさせるのなら、仲良くなんかならなければ良かった」と思う王子に、「黄色く色づく麦畑を見て、王子の美しい金髪を思い出せるなら、仲良くなった事は決して無駄なこと、悪い事ではなかった」とキツネは答える。別れ際、王子は「大切なものは、目に見えない」という「秘密」をキツネから教えられる…。
(内藤濯訳より抜粋)
この童話は、何を伝えようとしたのか。作者は、形に見えるものを、あくせくと追求していく人間の姿を強烈に非難しているかも知れない。
「大切なもの」と言えば個人それぞれに挙げられる。それには、人によって優先順位がある。つまり人間の価値観は同一ではない。各個人は、さまざまな考え方から意識の有無に拘わらず、価値の尊さ、大きさ、優先順位を持って生きている。
一方で、*おおかたの人間に変わらないものがある。「生命」である。「生命」には「生」と「死」が間違いなく随伴する。結局、「生きる命が終われば、死である」と言うことになる。
実は、生きる上での価値観を決める*根底には、「生命」に対する考え方、いわゆる「*死の観念」がある。
*大切なものは…‥内藤濯訳。直訳は「本質は眼では見えない」
*サン=テグジュペリ…‥アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupery)(1900.6.29--1944.7.31リヨン生まれ)。
フランスの作家。飛行機乗り。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からは、サンテックスの愛称で親しまれる。サン=テグジュペリ自身は、敵軍の偵察に向かうため飛行機で基地を飛び立ったまま消息を絶ち、二度と戻って来なかった。
「星の王子さま」は、ニューヨークでは1943年4月、レイナル・ヒチコック社から英語訳 The Little Prince とフランス語版 Le Petit Prince が、祖国フランスでは死後の1945年11月にガリマール社から Le Petit Prince が出版された。
*おおかたの人間…‥神聖な精神を持つ人間を除く意味で、その他の「多」を指す。例えば博愛的、純粋、神聖な宗教者には、自己の犠牲や生命を捧げることは稀にある。こういうものは、尊い生命の犠牲の上に「他を救う」ための神聖な思想である。多くの人間はこの犠牲の上に救済されている。これ以外の多くの人間を言う。
*根底…‥(E:)Fandamental.本来の根底の義も含むが今は主に、「行samskara」による積もり重ねた「業因(Karma-asiya)」を指す。行は、三業の中の「意」を形成し、それが「身」と「口」に作用する。「意」は、すなわち心を形成する原初(primary)、さまざまな要素として、それを形成する力を持つ(詳細は「業論」参照)。忘れてならないのは、業は「先きに意あり」である。ここから全てが始まる。
*死の観念…‥ここでは、考え方以前にある死に対する本能的な想念をも指す。死の思想は「死の観念 孤独と恐怖1・2・3」HP版参照。次本文参照。
「死の観念」
これまでのように、生きる上で大切なものとは、「生命」への考え方、それに必然的に対峙する「死の思想」の上に成り立っている。
生きものであれば「死にたくない」と思うのは当然である。逆観すれば、次に「死なないために、どうするか」になる。死なないために、と言うのは「生きるために」である。ここに、「それなりの価値」が生まれることになる。「それなり」とは、この時の「生の価値」は、あくまで「一時的」「一過性」であり、さまざまに変わる。終局的な「価値基準」ではない。その時その場限りの「一過性」であるために、次々と価値の基準は変わっていく。
人間は、頭で考えて心を統御するのは難しい。
心の本質は、*行(samskara)と「*強い想念」によって作用される。ここで行の詳しい説明は省くが、「強い想念」とは、繰り返し反復して念じる想いのことである。これも行の力として残る。
しかし問題は解決されていない。依然として「死なないために、どうするか」「生きるためには、どうするか」が残されている。
そこに残った形成力(行の力)は、これまでに蓄積された行との擦り合わせが始まる。整合しようとする「統一力(マッチング)」である。
この統一が上手くいかない時、強大な反発力が生まれる。影に潜む不穏な因子である。これが均衡を破る時、反乱、分裂する。心のクーデターである。こうなると脳でいかように考えても抑えることは困難である。人間は苦しみ、もがき、暴れて、脳内ではすでに収拾の付かない状態になっている。
言い方を変えると、統一されない時、人間は常軌を逸する行動に出る。つまり何が正しく、何が悪いかなどの判断基準は消滅し、「こと」の善悪には何の価値もない。条理不条理もなく、ここではすでに「心の力」「行の力」が勝(まさ)っているのである。「心の力」は脳機能の全てを意識下に抑え、判断する能力を統御していく。そのために正常の働きが成り立たないのである。
価値基準がない(持たない)と言うことは、ある種、精神的欠落人間である。言わば人間失格で、そう言う人間が溢れれば、社会的な秩序が乱れることになる。近年、それに源を発する「無差別殺人事件」が特に多くなってきた。現在は辛うじて、その秩序は保たれているように見える。しかし、今の拮抗が崩れるのは間もなくだろう。とすれば、こうした人間の増加は、地球規模で*関数乗法的に加速していくことになる。
いちいち、その原因を挙げれば枚挙に暇(いとま)がないが、それら全ての根源には、人間の「社会的生の価値判断(いわゆる価値観)」がある。
文明と言えば潜在的に何となく美化されていく。しかし一方で、文明の発展は簡単、便利とは別に、地球の自然破壊へと突き進む。なぜなら、(あらゆるものが)発達することは、「創造と破壊」、あるいは「破壊と建設」を繰り返しているに過ぎない。ここに調和や「*均衡(ゼロバランス)」がない。
特段に私は、自然破壊や環境汚染問題に触れるつもりはない。文明発達の功罪の視点から、テーマに触れていくだけである。
ただ、以下のことは、小学生でも解るようなことである。
空気を使い過ぎれば無くなり、汚染すれば綺麗な空気は無くなる。水も使い過ぎれば無くなるし、汚染すれば水の用は成さない。人間が増えれば、酸素を消費し二酸化炭素が増える。人間(や動物)が増えたら、食料を増やさなければ飢えてしまう。
人間は牛肉を食べる。牛肉を食べるために牛を育てる。牛一頭を育てるのに、飼料の*とうもろこしと*水がどれほど要るか。
これに環境破壊に繋がるプルトニュームや石油などの鉱物資源を採り、それを燃料や動力にして物を生産し、二酸化炭素や窒素ガスを増やしていく。当然、天候や自然現象にも異常が起きている。
何ごとも限度を越えては収拾が付かない。
「文明発達」の美辞麗句は、もはや限度を越えて行き過ぎている。それは創造と破壊の繰り返しである。発達の影に、創造は行き過ぎ、重要な「*均衡(ゼロバランス.前述)」を崩している。
一方で地球、自然には自浄作用と復元作用が働く。それが自然の理(ことわり)である。しかしそれを超えて均衡が崩れた時、地球自身で壊滅へと進む。単純な道理である。これが「創造と破壊」「破壊と建設」「均衡」と言うことである。
*行…‥(s;)samskara.潜在的な意志の形成力。終極には、業因となる。詳しくは他を参照。
*強い想念…‥本文で言うように「繰り返し反復する想い」。たとえばマントラ誦、イメージ訓練も反復によって想念となり得るようなこと。
*関数乗法的…‥数学.関数には一次から二次関数、三次関数など多次元関数が存在する。Xの二乗、Xの三乗などがある。「加速度的」と表わすことも出来るが、それを超える急激な加速を、ここでは比喩(メタファー)したもの。
*均衡(ゼロバランス)…‥天秤のように重さが同一ならば水平を保つ。水平の状態をゼロバランスとした。片側の重量が大きいと傾くのと同じで、全てのものごとには、偏り過ぎ、行き過ぎはいけない。元へ戻ろうとする自然的な働きがある。近年の投機マネーは、ゲームで言えばZero-Sum gameと同じ。
*とうもろこし…‥牛肉1キロ当たりで11倍=11キロのとうもろこし(飼料)が必要とされる。
*水…‥ここでは海水を除く飲用の水を指す。あるデータマップによれば、牛一頭を育てるために必要な水は4トン、牛肉1キロ当たりの飼料には、とうもろこし11キロ(上記)が必要である。そのとうもろこしが飼料にするまでには、水4トンが必要とされる。それらの水を消費しているのと変わらない。
少し寄り道する。
久し振りに「*福翁自伝」を読む機会があった。
その最後の文に「(…略)人間の欲には際限のないもので、不平を云わすればマダマダ幾らもある」。そして「…私の生涯の中に出来(でか)して見たいと思う所は、全国男女の気品を次第次第に高尚に導いて、真実文明の名に恥ずかしくないようにすることと…」と続く(岩波書店「福翁自伝」慶応出版)。
「私の生涯の中に出来(でか)して見たいと思う」ことの第一番が、「文明の名に恥じぬような気品に導いていく」ことである。
*福沢諭吉は、幕末から明治維新までの動乱の時代に生きた。あまり政治には興味を示さなかったが、しかし福沢の思想は政治家や思想家に大きな影響を与えた。
福沢が設立した後の「慶応義塾」建学の精神に「独立自尊」がある(講談社「独立自尊」北岡伸一著)。
福沢の生き方や思想に大きな影響を与え、その基礎になったものに*緒方洪庵(1810年.文化7年生まれ)との出会いがある。緒方洪庵は当時随一の蘭学者で医者でもあった。緒方との出会いがなければ、決して後の福沢諭吉はあり得なかっであろう。
洪庵はチフスに掛かった福沢を親身になって看病し全快させた。福沢はこの時のことを回想している。
「マア今日の学校とか学塾とかいうものは人数も多く、とても手に及ばない事で、その師弟の間はおのずと公になっている、けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見てどうも薬を授けるに迷うというのは、自分の家の子供を療治して遣るに迷うと同じことで、その扱いは実子と少しも違わない有り様であった。…私が緒方塾にいた時の心地は、いまの日本国中の塾生に較べてみて大変に違う。私は真実緒方の家の者のように思い、また思わずには居られません」(同上。一部原文を「新かな使い」にした)と。おそらく、この思いが「独立自尊」へ自発自転したと思える。
福沢の「独立自尊」は、「自尊」の視点に限定しても、私の言う「唯我性」と「自己の存在意義」に似てはいるが、それでも性質が違う。
(福沢の言う)本来の「独立自尊」の義は、次の通り。
「独立」とは「何者にも屈せず誰にもおごらず、権威や慣習、常識などにとらわれない態度」。「自尊」とは「自己の尊厳を守り、何事も自己の判断・責任の下で行動すると同時に、他人もまた独立した個人として尊重すること」。
また福澤諭吉は個人の独立、つまり自我の確立こそが国家の独立の根本であると考え、生涯を通じて一身の独立を論じ、一国の独立を念じた。この「独立自尊」の四文字には、福沢諭吉の教えが集約されている。(「慶応義塾大学」慶應キャンパス新聞会 抜粋)
「独立の気力のない者は必ず人に依頼する。人に依頼する者は人を恐れる。人を恐れるものは必ず人にへつらう。そして人にへつらうことによって、時に悪事をなすことになる。独立心の欠如が結果として、不自由と不平等を生み出す」。因って「学ぶことの目的は、まずは独立心の涵養である」と考えた。(抜粋)
そして同じように、人間の愚かさ、もの(物質性)を追い求める人々を激しく比喩したのが「星の王子さま」なのではないか。作者のサン=テグジュペリは「星の王子さま」に7種の(星として)人間を登場させている。
1. 自分の体面を保つことに汲々とする王
2. 賞賛の言葉しか耳に入らない自惚れ屋 3. 酒を飲む事を恥じ、それを忘れるために酒を飲む呑み助 4. 夜空の星の所有権を主張し、その数の勘定に日々を費やす実業家
(これが絵本、新訳の一部ではビジネスマン) 5. 1分に1回自転するため、1分ごとにガス灯の点火や消火を行なっている点燈夫 6. 自分の机を離れたこともないという地理学者
どこかへんな大人ばかりだった。6番目の星にいた地理学者の勧めを受けて、王子は7番目の星、地球へと向かう…。その地球で、知らない内に好きになったキツネとの別れ際、大切な秘密を教えられる。
「大切なものは、目に見えない」と。
サン=テグジュペリは、日本で言えば福沢諭吉より65年遅く生まれ、終戦直前の1944年に亡くなっている。それ以降に生を受けた現代の人間は、この高尚な精神、品格から恐ろしく遠く離れている。
僅かに近代文明の黎明期に、警鐘を鳴らしたものがいる。サン=テグジュペリとこれまでの福沢諭吉、その師、緒方洪庵らである。
見えないものへの憧憬と、無知なものへの一大啓蒙を込めて鳴らしているようだ。
*福翁自伝…‥福沢諭吉の口述をまとめた自伝書。改訂版も多くあるが、岩波文庫(昭和42年4月20日代18刷)を読む。著書は多く1866年「西洋事情初編」その後、同外編、同二編と続く。多く知られる「学問のすゝめ」1872年初編。月刊として発刊し1877年まで17編(11月刊)になる。14編「文明論之概略」が知られる。
*福沢諭吉…‥1835年(天保5年)12月12日生まれ。福沢は安政年3月9日、緒方塾に入門。1年後、チフスに掛かった友人を看病していて諭吉自身も感染してしまう。
*緒方洪庵…‥文化7年(1810年)8.13-文久3年(1863)7.25「新暦」。備中国足守藩士・佐伯瀬左衛門の三男として足守(現・岡山県岡山市足守)に生まれる。天保7年(1836年) 長崎へ遊学しオランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学ぶ。この頃から緒方洪庵と名乗った。幕末から明治維新まで福沢諭吉、大村益次郎など多くの人材を排出した。
*耐性…‥耐久力とも言えるが、主に「心」「精神的な耐える力」の性向を指す。今は身体的な耐久力を言うのではない。
*前セミナーにおいて、自信の基底として「唯我性」の素晴らしさを見い出し、ゆえに「自己の存在意義」を確信することであった。
それは、『信じる根拠のないものが、どうして自分を信じると言えるのか。不合理である。その根拠は「自己の存在意義」なのである。これが見出せない時、真の自信はない』(セミナー講義原文)…ということだった。
人間は、欲に溺れ、どこまでも欲を追求していくのである。
欲は、(社会的に)生きていく上で個々の価値基準を生む。この価値基準に因(よ)り全ての意が生起し、次に口・身の三業が生まれる。それらの因に基づいて、先のように創造し、そして破壊していく。それを人は「文明」と呼ぶ。近代文明の黎明(れいめい)期には、おそらく精神的文化の発達も附随するものであって、伴い勉学によって人間には気品や品格も備わっていくはずである。
ところが、その文明の発達に、人間の精神性の向上、すなわち高尚な精神性は追い付かなかった。物質主義的、拝金主義的な価値観しか持たない人間が多く、福沢の語った幕末、明治維新の頃に比べて少しも進歩が見られない。
ものは溢れ、便利になった文化を、真に文明と言えるのだろうか。文明と言うには、精神的稚拙と未成熟、精神的文化はあまりに酷(ひど)い。
一方では飽食に「うつつ」を抜かし、他方で飢餓に苦しむ国がある。発電や車、飛行機などの動力源はガソリン、鉱物資源(プルトニウムなど)である。便利さを追求すれば窒素や二酸化炭素、オゾンの物質を排出していく。因って現代では、利便性と環境汚染は比例的に進むことになる。
結局、自然環境を破壊して異常な気象を招く。ゲリラ豪雨や洪水などで日本はひとたまりもない。海水温の上昇は生態系バランスを崩し、魚や動物も、もうすぐ無くなっていく。それに拍車を掛けたのが「*投機マネー」による高騰で、実際に穀物やガソリンがないのではない。正(まさ)しく「*スタグフレーション」である。
*投機マネーについては「破壊していく日本人」で述べる。
いまさらエコロジーを唱えても遅い感がある。これらの最大の元凶には、人間の社会的「生の価値観」がある。生きる上で、楽しく利便性を享受するには金持ちでなければならない。多くの人間は何よりもそれ(上述の楽しく…以降、金持ちでなければならない)に最大の価値を置く。株式や穀物投機に群がるのもそれに価値を求めるからである。
*前セミナー…‥「心の闇と貧困性」Apr'08より数回に亘って講じた。
*投機マネー…‥本文参照。
*スタグフレーション…‥(E;)stagflation.(経済)不況と物価上昇が併存している状況。経済環境。stagnation(経済の停滞)と inflation(通貨価値が下がり、物価が急激に上がる状態)の造語。
破壊していく日本人
1.投機マネー
2008年8月以降、グローバルな金融大恐慌に、いま、人々は呆然としている。
加えて、ガソリンの値上げ、鉄鋼、建築資材から日用品、牛肉や乳製品、米、小麦、大豆などの主要穀物、飼料のトウモロコシまで、全て値上がりしてしまった。世界の投機家が招いた*スタグフレーション(前項*註)である。
「2002年2月から始まった景気拡大は、昨年(2006年)10月で、57ヶ月続いた戦後最長の景気を更新していた。
しかし、景況は8月に入って急速に変わった。米国の*サブプライムローン(低所得者向け住宅ローン)問題が、予想外に世界的な広がりを持つことが次第にはっきりしてきた。
7月に入り、複数のプライベート・ファンドがサブプライムローンの焦げ付きから倒産した。8月になるとヨーロッパの銀行傘下のファンドが倒産に追い込まれた。親元の銀行の信用度が懸念されるようになり、にわかに危険な状態になった」
「宴の終わり〜サブプライムローン問題の意味〜2007年9月10日(月曜日)」根津 利三郎著、抜粋。
この、アメリカ発の「サブプライムローン」問題に端を発し、金融恐慌が起こった。しかし、この恐慌は単なる偶発的なものではない。
東南アジア圏、特に日本を初めとした、中国、インド、韓国などの食習慣の欧米化に、アメリカ農務省とアメリカ農業者組合との深い戦略があった。
アメリカの目論見は、食習慣を欧米化して、ステーキなどの牛肉を食べさせることである。牛肉の消費が拡大すれば、牛飼料のトウモロコシの需要が増える、と。同時に、中国で良質の乳製品の普及を図った。この戦略強行には、「*日本での成功」があったからだ。この戦略で、アメリカの配合飼料用トウモロコシは画期的に伸びていった。
その戦略から半世紀経ったいま、新興国として経済成長を続ける中国13億人の胃袋を満たすには、米、小麦、大豆などのさらなる需要を見込めるのである。
中国に続き、インド(約8億人)、ブラジルなどの新興国が、IT関連(特にインド)や代替エネルギー産業(ブラジル)で、ここ4-5年の間に急速に*GNPを伸ばしてきている。当時、金余りでだぶついていた「資金」はそれに向かった。そこに集中的に投機マネーが集まったため、穀物の高騰が起きたのである。
買いが多くなれば、株は上がり商品価格も上がる。つまり需供バランスは崩れ、物価は高騰して貧しいものが物を買えないことになる。
そうした一方で、過熱したアメリカの住宅ローンは、2007年3月13日、大手証券化投資会社ニュー・センチュリー・ファイナンシャルの経営破綻が懸念されるとして、*NYSEでの取引が停止され、上場廃止が決まった。
金融不安への増殖はここで始まった。次いで2007年6月22日、米大手証券ベアスターンズ傘下の*ヘッジファンド会社が、サブプライムローンに関連した運用に失敗したことが明らかになって、問題は金融市場全体に拡大し、世界に連鎖したのである。
投資家の行き過ぎである。単なる住宅ローンが債券化されて、さらに組み合わせて証券化しリスクを分散した。それを販売した証券業界、それを買う金融関係、銀行、公共機関や投機家らがマネーゲームに走り過ぎた。住宅需要と供給、金利が上がり続けなければ、このサブプライムなどの証券化商品システムは成り立たないのである。どこまでも上がり続けるわけがない、と誰でも判断出来るようなことだが。
*サブプライムローン…‥(E;)sub prime-loan.低所得者向け住宅ローン。
住宅ローン担保証券(RMBSもしくはMBS)の形で証券化され、さらにそれらが債務担保証券(CDO)の形に再証券化されて、金融商品として販売される。
元来、プライムとは裕福なものを指すが、それほどの信用力(クレジット・ヒストリー)のない低所得者や、資金のない下級層向けを主として狙った金融ローンを開発した。
*日本での成功…‥1959年、「豚空輸作戦」と名付けられた伊勢湾台風被害支援のアメリカ戦略。この時、種豚36頭(10年後に7万頭に増える)、トウモロコシ1.500トンを空軍機輸送で支援した。当時の日本の養豚の餌は飼料ではなく、残飯を与えていた。
*GNP…‥gross national product.国民総生産。国が一定の期間、どのくらいの経済活動をしたのかを示す指標の一つ(略称)。
*NYSE…‥New York Stock Exchange.ニューヨーク・ウォール街にある世界最大級の「ニューヨーク証券取引所」
*ヘッジファンド…‥hedge fund.もともとヘッジhedgeは「つなぎ売買」のこと。fundは「資金、信託財産」を言う。ヘッジファンドは全損などを避けるためにする両賭けのこと。したがって片方で損をしても、もう一方で損をカバー出来るように賭けることで、まる損を防ぐ狙いがある。
2.一点素心
古人(作者不明)は言う。「一点素心」を忘れるな、と。
「心」の中に、一ケ所(一点)だけは「増えることもなく減ることもない、汚れもなく清浄もない、死ぬこともなく生まれることもない」純粋に実在の根本を残しておきなさいよ、と言うことになる。*サーンキャ哲学より「ヴェーダーンタの哲学」の「*アートマン」に近い考えである。それが自己実在の根本である、と言うのであろう。
これまでのように人間は、自己の欲と価値観とが一致した時、また短絡に欲にまみれてそれを追い求める。
しかし、「一点素心」は、「人間らしさを忘れてはならないよ」と言う。欲に振り回されず、心のどこかに「曇りなき」実在の根本を残しなさい。たまにはそれを見なさい。少しは欲から離れなさい…‥と言っているように思える。
*サーンキャ哲学…‥(s;)samkya yoga.サーンキャ(ヨーガ)哲学理論は多元的二元論で構成される。真我(pursa)、プラクリティ(purakrity)の二元性である。この真我は精神性の原理で、後のヴェーダーンタ哲学で個人我、宇宙我(param-atman)の二つのアートマンを考える原理となる。
*アートマン…‥(s;)Atman.原初のサーンキャ哲学の考えでは真我pursaに近いが、後に仏教に取り入れられたアートマンは、Jiva atman(個人我)にほぼ近い。
3.少年の性格変質
人間は物質的な利便性を享受し追求することを文明の発達としている。それが「生の価値観」であって、精神性を置き去りにした、およそ文明とは言い難い賤(いや)しめる品性である。
そういうもの(物質性)に価値を認めながらも、しかしどこかで人間は、本能的に「孤独」を怖れ「死」を怖れる。「死」を怖れながら、さも無関心を装って「死」を避けようとする。それを真正面から対峙するだけの「*耐性(前註)」に乏しい。
顕著なのは、終戦後に生まれた60代の壮年層から年少者に至るものたちである。戦後復興の時代で、その時代的な背景が影響している。終戦後の復興から物質主義、拝金主義的な価値が生まれ、その生活が理想とされた経緯がある。しかしそれは、あくまで言い訳でしかない。
やっと金品に恵まれ、裕福になったと思ったところで気づいた時には、子供は耐性のない脆弱な精神性しか持っていなかった。昨今の犯罪には、少年のそれを裏付けるような精神的末期症状が表れている。
子を殺す親、親を殺す子、幼い子、弱者を殺す若者、誰でもいいからと無差別に殺りくする少年や若者…。
警察庁の集計では、明確な動機なしに、不特定の人を殺傷する「通り魔事件」は、今年に入ってから6月末までに東京・秋葉原での無差別殺傷を含めて5件(2件は未遂)起きており、昨年も8件あった。
▼若者、少年犯罪
1.東京・秋葉原で17人無差別殺傷事件、加藤智大(25)(2008年6月12日読売新聞)
の後、まだ続く。
2.斧などで父親殺害容疑、17歳の無職長男逮捕…奈良(6月27日)
父殺害容疑の長男 原因は「一人暮らし反対された」(2008年6月29日)
3.少年が高速バス乗っ取り、監禁容疑で逮捕 愛知の東名(2008年7月16日)
4.父刺殺事件 中3長女「気が動転、覚えていない」(2008年7月19日)
5.高1殴られ死亡 傷害致死容疑で少年ら聴取 群馬・桐生(2008年7月22日)
群馬・高1暴行死、元同級生を傷害致死容疑逮捕(2008年7月23日)
6.駅ビル書店で2人刺され1人死亡 33歳男逮捕 八王子(2008年7月23日)
7.耳切断の重傷 車ひき逃げしたのは「14歳女子」(2008年10月19日)
など。
ちょうど本稿を書き足している時、またも19才少年の「誰でもいいから」犯行事件が報道された。要約して次に掲げる。
■19歳「誰でもいいから殺す」車で通行人はねて死なす(2008年11月11日)
『歩行中の男性を故意にはねたとして、千葉県警香取署は11日、同県香取市内に住む会社員の少年(19)を殺人未遂の疑いで逮捕した。男性は収容先の病院で死亡したため、殺人容疑に切り替えて調べている。
少年は調べに対し、「父親にしかられてイライラしていた。誰でもいいから殺そうと思った」などと供述しているという』(朝日.com)
類似する少年殺人事犯は、2年ほどで17件に上る。異常に多い。その大半は「イライラして」「誰でもよかった」の二つが共通する原初の原因である。
たったこれだけの理由で、残虐な殺人行為に進む。この心理は普通ではない。
ちょっと「怒られたから」が「イライラして」に。次に「誰でもいいから殺したかった」になる。ここには、少しの心の耐性もない。
耐性とは、忍耐と言うほど強く耐えることを指すのではない。少し我慢する、少し感情を抑える程度のことで、その少しが出来ないのである。
ちょっと「怒られたから」、頭は真っ白になって、パニック状態になる。次に「誰でもいいから殺したかった」と進む心理は、未熟と言う以前に「精神の異常性」が見られる。
幼稚で未成熟な精神性が噴火したが、経験がない。経験ないことだから処理出来ない。考えることもせず、ただ直截的に「イライラして」たから殺す。少年らの出来ているシナプスの経路は、真直ぐ「殺す」に繋がっている。こういう事態がここに来て、ウイルスのように爆発的に増殖している。
子供の性格や性向は、愛情は無論のこととしても、親の生き方や躾、基礎教育などから醸成されるのである。そして考え、悩むことである。「性格」はその過程の中で、身近なものから受ける影響によって形成される。その時、「性格の変質」たる原初の原因となることがある。特に少児や子供の成育期に関わる親の躾、基本的な考え方を正さなくてはならない。
少年の性質が変わった。最近、*頓(とみ)に変質した。 性格の変質した少年の増殖は、社会の不安はもとより、親であろうと他人であろうと、みんなが「一時も休まらず」「他を警戒」せずにいられないことになる。この二つは内在する潜在的な「不安」からやがて「死の観念(他を参照)」を激しく揺さぶっていく。
揺さぶり起こされた「死(の観念)」は、いつも恐怖におののき、殺される妄想に捕われてしまう。妄想する人間には、他人は「(自分に)危害を加える者」のように見える。ついには近くの人間を殺してしまうことに。自己防衛のためである。妄想的無差別殺人は、このようにして拡大する。
「性格の変質(異常)」は、人間社会に不安と疑心暗鬼をもたらすことになる。前にもまして人々は「誰も信じられない…」と、「総人間不信」の現象が起きるだろう。
*頓(とみ)に…‥にわかに。急に。
4.幸せはどこで感じるのか?
お金があれば、食べ物があれば、家(住宅)があれば、家族があれば幸せに思う。
愛する人がいれば、人に愛されていれば幸せである。結局、金や食べ物、住まいも周りにいる人も、見えるものである。
もし、それら見えるものが無くなったら…。と考える時、人間は恐ろしく深い闇へ突き落とされていく。
いま、唯一幸せと言う幸福観の根底は、「生の価値観」と同じである。その価値観の根底は、「見えるもの」に寄り掛かっている。「無くなったら」は、普段「あり得ないこと」として退(しりぞ)けている。だがその幸福観は、逆に根底であるはずの「生の価値観」によって一瞬にして雲散霧消してしまう。その程度のものでしかない。
その例は、8月からの金融大恐慌によって、多くの大手の企業、金融業者、保険会社や証券会社に倒産の懸念が取りざたされているのでも解る。その会社員は転職や失業、あるいは会社倒産と、生活レベルは急変急落し苦しくなっている。中小企業に勤める人間も、むろん例外ではない。
少なからず私の知人や友人に、問題の証券会社幹部の優秀な人間がいた。そのため、私は身近なことと感じている。今や年収は当時の2割から5割程度まで下がったと言う。中には、せっかく買った高級マンションや家屋を処分し、平均的な生活に戻ったものもいるようである。しかし、それにはさまざまな問題も残されたようだ。
知人を非難することではないし、金儲け、利益の追求が悪いと言うのではない。だがそれより以前に、自分の「心」を大切にし、見つめることがなければならない。
仕事をして稼ぐのは幸せを得る一つの手段、一つの過程であって、「幸せ」そのものではない。しかしいつしか人間は、欲を追い掛けそれに没頭して「心」に向き合うことを忘れてしまう。「見えるもの」のダメージがあって、その時初めて「心」に向く。
「幸せ」は、どこで感じるのか?
「心」で感じてこそ「幸せ」と思うのである。その心を第二義的に据え、それより「見えるもの(物質)」を第一義として生きる。それが皆さんの「社会的生の価値判断」であり、「生の価値観」なのである。
「見えるもの」に第一の価値基準をおいていれば、それなりの幸せでしかない。その第一が夢と崩れ、霧消した時の「第二」はそこにない。
今までの「第二義」ではなく、見失った本来の「第一義」の「生の価値観」に甦(よみがえ)らなければ、日本人は「*アノミー(anomie)」化してたちまち破壊されていく。
数年後あるいは十数年後…、
穀物を作り過ぎ、魚を取り過ぎ、水を使い過ぎ、鉱物燃料を使い過ぎて、世界には残骸の他、何もない。世は貧しさゆえに窃盗や殺人犯罪は横行する。信義礼節は、とうに乱れ正に*アナーキー(無政府状態)と化している。
ほとんどの人間は、戦争の終わった後のように、食べ物もなく、お金もなく、住むところさえないアンダーワールドのような生き方かも知れない。これらは、全くの推論ではない。さまざまなデータによっても破壊に進んでいることは、間違いない。
「生の価値観 1 終わり」
*アノミー…‥(F;)anomie.規範や価値観がなくなった渾沌とした状態を指す。
*アナーキー…‥anarchy.無政府状態。法律のない世界のごとく一切秩序のない状態。
◆参考
1.政府の原理を説いた。現在の政治混迷の打開にも参考となる。
「学問のすゝめ」 福沢諭吉(初編第2段 抜粋)
西洋の諺に …‥として述べる。
「西洋の諺に、愚民の上に苛き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず,愚民の自から招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば,良民の上には良き政府あるの理なり。故に今,我日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり」。福沢は政府の根本は、良民の上にあると言う。これは政府の原理を説いたものだが、人民の生活が向上するもしないも、国民の優劣によることを言った。
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