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生の価値観 1
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 中高生諸君よ
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 死の観念「孤独と恐怖」1

 死の観念「孤独と恐怖」2

 随筆親と子の絆

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 随筆日本人の東洋性

 三諦説 空・仮・中

 禅・哲学用語

 随筆 禅の六祖「慧能」

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中道
 業と因縁...ほか

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中村 薫 (事務局)


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死の観念「孤独と恐怖」2 

 改訂;Oct'97
改訂HP版;Jan'00
新改訂HP版1;Nov'01
新改訂HP版2;Nov'03



 前号(死の観念「孤独と恐怖」1)で、*マーチン(マルチン)・ハイデッカーの著作「存在と時間」から「死の観念」をいろいろと考察してみた。だが彼の要点を全て網羅することもできず、いまだ不十分ではあるが、ここでは私の解説からテーマの真意を汲んでいただきたい。



 このように孤独や死に対しての恐怖というのは、人間を根元から揺さぶって苦しめていく。この感覚の起こる原因は、これまで述べてきた通りである。
 しかし、このようなことは頭だけの理解では、到底解決には及ばないのであり、いつまでも悶々としてこの苦しみに苛まれることになる。
 私は「北巳 零…」に所属する会員には、徳を持って早く離脱してくれることを願っている。脱すれば、悟らずとも心には確かな平安が訪れる。それには*グルへの絶大な信愛と、そして自己への確たる信頼を持つことである。

 私がいつも言うように、自己を信じ、自己を灯りとする(これを自灯明という)ことが大事である。*グルへの信愛と自己を信じるという二つが強く動機付けられ、確定していれば、孤独や恐怖というものは一切生じない。つまり(法の具現者としての)グルと*法(Dharma)と自己との三者に精神的連関が生まれ、三つの輪が一つになる。これで初めて自己が、すなわちグル(すなわち法)と一体となる。
 人間は一人では生きられない。それだから自己を信じ、法を具現するグルへの信愛が必要である。人間には、生きる上でそういうことが最も大切であるはずだ。

 *グル…‥(s;)guru.タントラヨーガにおいて、グルの存在は極めて大きい。タントラヨーガ行の修習とは精神、心の未知の領域に入る心的作業である。自明のごとく修行者は心の暗黒領域へと入り、迷いや未曾有の恐怖を覚える。そこで経験豊かなグルは、迷う修行者に進むべき方向や階梯を示す必要がある。タントラヨーガでこの階梯を成すには、前提的にグルとシッシャsissya(弟子)の絶対的な信愛関係に依存するのである。
 グルは、直接の神の具現者である。それはさまざまな超自然的な力からもそのように見られる。つまりグルは、法そのものの具現者である。法とは存在、あるいは真理を指す。これらを満たし、直接この世に現す(具現する)ものと言う義である。
 *法…‥(s;)Dharma.存在、一切の真理。仏陀が法を説くことを「説法」と言う。三法印の諸法無我の法とは、存在を表わす。
 *マーチン(マルチン)・ハイデッカー…‥Martin Heidegger.1889-1976.ドイツの哲学者。シリーズ前「死の観念」1、およびHP「説法・十住心」「講演録」他を参照。時にマルチンと呼ぶ。



   生への衝動

 人間にとってどうにも避け難い、追い越しえない切羽詰まった可能性を、われわれは常に持ちながら生きている。直接的には、意識の深層に潜む「死の観念」からの絶望というものが、釈尊の言われた「苦」である。
 その、どうにも超えられない「苦」…そういう絶望的不安というものを持って生きているゆえに、人間は幻想のパターンを作り、そのパターンによってさらに気遣い(ゾルゲ)のパターンというものを生んでいく。

 その意味で、人間は心の底で「今、生きるということ」いわゆる現存在(Dasein)というのは、いつ死ぬか解らないという不確定性=「*不安(Angst)」を持ち、人間は必ず死ぬという、確かな可能性としての確実性=「絶望」とを併せ持つのである。その不安と絶望が、われわれ(現存在)を「その宿命のいとなみ」の中へと連れ込んでいく。しかも、それは常に現存在をおびやかし続けながらだ。


 どんなにしても避け難い「*苦」(孤独と絶望)を隠すため、その「苦」を消し、また考えないようにするために、反動的に生への衝動(欲望)が起こる。いわゆる生への衝動とは、人間ギリギリのところで生起する「追い越しえない可能性としての露呈」である。それがいつも切迫した「死の確実性」への抗(あがな)いとして…。
 結局、不安と絶望を隠蔽する行為の裏側には、「生への衝動」がある。「生への衝動」とは、そういう人間ギリギリの淵から生まれる、「生きよう」というダイナミックな欲望でもある。*衆生はとりあえず、*それに夢中になるしかない。

 *不安…‥(D;)Angst.次項*苦、および後述する死の観念「孤独と恐怖」3の註*恐怖.参照。
 *苦…‥仏教の苦(s;)dhukha.とは捉え方、論理の展開の仕方が違う。ハイデッカーが言う苦とは、不確定性(不確実性)な「不安=孤独」、確実性の「絶望=死」の構図になる。それらが人間のいまここに居る自分(現存在)を脅かし続けるから苦だと。
 *衆生…‥迷える生き物。無知無明の生き物たち。
 *それに…‥ダイナミックな生への衝動。この思想的傾向は十分、西洋的である。これについては後に話す機会があろう。


 多くの人は、自分の「生き方」を掴んでいるのだろうか。自分の生きる「生き方」というのを知っているのだろうか…。ほとんどが「生への衝動」に、単に漠然と突き動かされて、ただ闇雲に走ってるように…、私にはそのように見えるのだ。
 無我夢中というのであれば、それなりに「生への衝動(欲望)」の到達に、あるいは満足を得られるかもしれない。しかしそれでも「死の観念」そのものが消え失せたのではない。決して消えてはいないのである。
 初めのうちは夢中になれるが、それに嫌気が刺すことはある。すると次にまた夢中になれる「何か」が必要だ。その繰り返しは学習されて、次第に人間はマヒ状態になっていく。マヒすると特別の感慨とか感激というものはほとんど希薄になっていく。簡単に言えば、こういうところが現代日本人の深層的意識ではなかろうか。だからほとんどの人間は無機質的で、しかも無感動か、感情の表わし方が異常である。

 つまり、おかしかったり楽しかったりで笑いがなく、特別怒ったり、ひがむ必要のない時に、急に感情的になったり、またヒステリックになったりする。そうかと思えば、特に感動するようなことでもない時に、嬉しがったり感謝したり…、というのをときどき傍観する。どこか観点が狂っている。ポイントがずれている、Out of pointだ。これは最近の子供たちの意識に、引いては子を持つ親たちにも共通している。


 そういう深層から少年犯罪は、簡単に無差別的に、加害者とは無縁な行きがかり的に起こる。しかも「遊び」のように、殺すことに何の罪悪感もないのが特徴的である。犯罪を起こさないまでも、子供たちの心は、マグマのようにいつ爆発するか知れない危険をはらんでいる。その莫大なエネルギーを内在しても、そのエネルギーの順当な捌(さば)き方(処理の方法)を知らない。
 ここに本当の遊びがないからだ。子供たちはいつも、そのはけ口を求めて苦しんでいる。このような子供たちは、実に哀れである。
 遊びも勉強も、そして価値観さえも「教育」という名で統制されてきた現代社会の生んだ悲劇の子供たちなのだ。これは、無上の悲劇である。彼らの「家庭内暴力」などの行動は、彼ら自身の鋭い直観からくる大人たちへの抗議行動であるし、救済を求める彼らの悲痛な「魂からの叫び」である。

 子供たちの「魂からの叫び」を黙殺していく。このような管理社会を構成し堅持しているのは、実に日本の大人たち、そこにいる親たちではないか。私は、母親(教育ママ)ばかりが悪いとは言わないし、親だけの責任だとも言わない。だが、決して悪くないのではない。大人の特殊な価値判断や学歴偏重志向の考え方は、やがて日本人の「*エシックethic」をもコントロールし、方向を変えていってるのは明らかだ。
 エシックとは、哲学で「倫理とか社会的な価値体系を指す」言葉だが、結局そういう考え方は、日本人のエシックを統制し、子供の個性までもつぶしている。単一的なエシックの状況では、個性など無価値なものであり、アウトローとか「人間失格」程度にしか考えられていない。だから生きるには一流の大学へ行くことなんだ。人間が生きる上で、学歴が最も価値あることなんだ、と言うように。しかし、生きる上での価値というのは、決してそれだけであろうはずがない。

 人間の社会的に生きる上での価値観を、偉大なる京都学派の哲学者・*西田幾多郎は「社会的生の価値判断」という。価値判断には、物事の優先順位を伴う。優先順位とは、人間は常に何が優先で、次に何が大切かという欲望の順位を考え、行動する。あるいは、それが自分にとって得か損かというようなことである。
 日本人は、何よりもエリートコースを優先し、それに価値を認める。こうした考えは、全ての人間を学歴によって評価し、管理するという愚かなまでの単一的価値観の社会を生んでいく。

 *エシック…‥ethic.哲学で倫理とか社会的な価値体系を指す言葉。現代は、このエシックが崩れ始めている。人間の能力も物的価値として換算され、社会に組み込まれていく。これが学歴偏重の考え方の基になって、愚かにもこの波及が人間が生きる上での社会的な価値体系を形作っていく。その結果、一層の精神性の希薄が起き、無感動、無機質的な異常犯罪が生起していくのである。
 *西田幾多郎…‥1870(明治3年)-1945(昭和20年)。明治末期から昭和に掛けて多大な影響を与えた京都学派哲学の創始者。後に西田哲学と呼ばれる思想体系を築く。西洋と東洋の思想を統合し、独自の思想体系を生んだ。「善の研究」初め多くの著作、書、画が残る。禅に造詣が深く「寸心居士」号を持つ。現在でも私が参加している京都大学の西田哲学研究会は続いている。会報、HP「講演録」を参照。


 これまでその管理社会の構築に一役を担い、「勉強」が唯一価値を生むのだ、とばかりにそれに傾倒し、増長してきた無知な親たちの責任は重い。だが、わが国の大人たちはそれに気付いているのだろうか。単純にそれ(時代の世相やムード)に同調する人間があっちこっちに現われ、やがてそういう価値観だけの集団性ができ上がった。その集団性を作っていったのは家庭の主婦(母親)、そこにいる親や先生たちである。
 およそ集団と言われるものは、特殊性を持つ。特殊には普遍性はなく、一定の方向性を持つ。その先は、有名私立高校から一流大学、高級官僚か一流会社である。それが管理社会で唯一価値のあることなんだ、という方向性である。これが日本人の底に流れる教育思想の潮流である。


   自我の目覚め、母子の分離不安
 
 中高生時代というのは、ちょうど思春期にあたる。その頃は感じやすく傷付きやすい敏感な時期であり、しかも人格の形成には極めて大切な時期である。そういう時期に「自我の目覚め」が、しばしばある。
 自我に目覚め、精神的に独立しようとするが、ところが母に甘やかされ、祖母に過保護に育てられた子供には、「母との分離不安」があったり、自力で自我へ脱皮するだけの力が始めっからないわけで、だから、できない。すでにたった一つの心の拠り所となっている母との絆は太く、その母との別れは大きな不安材料(これが分離不安である)となる。
 母は母で子離れしてないから、いつも「あの子、大丈夫かしら?」と心配でたまらない。分離不安は、子供だけではなく親にもある。その不安のためお互い離れにくいのである。しかし自我に目覚めた子供は、心から独立を望んでいるものの、離れられないジレンマにおそわれる。過保護に育てられてきた子供には何の経験もないから、そういうジレンマに対処できない。だから親は、何かが起これば、すぐ子供の代わりにしてあげる。子供はいつまでたっても、ものごとに対応する能力が身につかない。そうした子供には*耐性はなく、何事も我慢できない。目一杯わがままで自己中心的、しかも精神的に全く未熟である。

 こうした家庭環境の中で育った子供にとって、勉強ができなくて成績の落ちこんでいく焦りと、自我の目覚めによって起きた(独立したいが分離不安があるという)ジレンマが重なると、気が狂うほどの心の葛藤を生むのである。ダブルの葛藤である。そこへさらに母から「あなたは頑張れば出来るんだから…」とか「勉強がんばってね」と言われる。(本人の)理由の付かない「うっせき(それが自我の目覚めからなのだが)」に、親の過剰な期待が、子供の心にトリプルにのし掛かっていく。これでは心が重くなる。そういう言葉は励ましでなく強迫である。こういう強迫観念は、耐性のない子供にとって、焦りや苛立ちを頂点へと導いていくわけだ。心の中では、「てめェ、これ以上おれに勉強しろというのか…」というような、一触即発の状態になってくる。これがきっかけとなり「家庭内暴力」が起こるのだ、普通は…。

 *耐性…‥ここでは耐久力、我慢、忍耐性などを言う。



 「家庭内暴力」の問題児というのは、実は子供の側に問題があるのではなく、親の生き方や教育に対する理念や特殊な価値観が大きな問題なのである。
 昔から言うように、子供は親の背中を見て育つ。その見本を見ながら子供は育つ。たとえば両親(夫婦)と自分の関係、その親と祖父母の関係、祖父母と自分との関係が、うまくいってるかどうか。それを敏感に感じ取っていく。何か問題が起きても通常なら、それぞれの役割を調整しながら、家族はスムーズに解決していくものである。しかしその調整がうまく働かない時が危ない。「家庭内暴力」は、そういう家族の在り方というのが問題となろう。

 先の「分離不安」は母子間のみならず、祖父母と孫の関係にも多い。今の親は、祖父母が敗戦を迎える前後に生まれた娘や息子であろう。戦争の真っただ中、祖父は軍人経験もあって実直型である。祖母はそういう夫にこれまでただ寡黙に遣えるだけであって、何一つ楽しいこともなかった。しかし今、ようやく楽しみができたのだ。「孫」という楽しみが…。自分の人生の愛を全て孫にささげる、これがホンとの孫への愛情だと思っている。だから何事にも口を出してくる過干渉な「うるさいおばぁちゃん」になっていく。
 子供は、そういうのはうっとうしいが、それからのがれる勇気がない。そう思いながら、おばぁちゃんと別れるのは不安になる。どうにもじれったく、自分の気持ちの処理ができないから苛立ってくる。
 夫は夫で、帰宅すれば疲れたというだけで、子供のことは全て妻に任せっきりである。子供に対し、それに妻にも取り立てて意見を言えない夫は、子供にとって尊敬できる「父」ではない。父の存在というものがないのと同じである。

 子供は幼い頃、*フロイトの言う父に対する「*エディプス・コンプレックス」を持つものだ。母にあこがれ、母を慕うがゆえに、母を父に取られまいとする。その挙句、父をライバルとみて、心の中で葛藤するのである。だが、どこまでいっても父には適わないんだ、というコンプレックスが生まれる。これが「エディプス・コンプレックス」である。ところが、そうしながらも子供は、父の偉大さを自然に認めていく。しかし父権の存在しない父というのは、子供の心の中から、その「エディプス・コンプレックス」の対象から外されてしまう。つまりそういう父親を見ている子供にとっては、もはや父ではないのである。ここで「父を認めない」という特殊な環境(心理状態)が生まれる。

 一方で妻は夫の物足りなさを、母となり切ってわが子へ全ての愛情を注いでいくパターンだ。いわゆる子供は、夫との愛の代替物でしかない。妻は妻の義務を放棄し、今までの夫婦愛の物足りなさを、子供から必死に吸収しようとする。夫の愛情不足を子供に求めていくのだ。よくあるのは、母はいつまでも自分の子供であって、自分と共に暮らしてほしい、と願う母である。そういう母は、子供が妻を得たら気が狂ってしまうか、追い出してしまうだろう。近い将来、自分にそれが起こると直観するのだ。そうなると自分の人生はない、もうおしまいと思うんだ。それを感じた子供は、「おれの人生はおまえ(母)によって駄目になった」と思うはずだ。それを悲観して、だから「僕の人生を返せ」と言うのである。子供を、こういうところまで追い詰めていくと、畢竟(ひっきょう)、殺人事件になるのである。

 *フロイト…‥Sigmund Freud.1856-1939.オーストリアの精神医学者。精神分析の創始者。
 *エディプス・コンプレックス…‥(E;)edipus complex.本来のドイツ語表記[Odipuskomplex]である。フロイトの思想。北巳 零著「さとりへの道」他参照。


 このように「家庭内暴力」というのは、問題児が問題なのではなく、家族全体が問題なのである。広義的には、少年事件を含めて言うと、日本民族的な問題にもなり得る重大なことだと言わねばならない。波が押し寄せるとすぐに崩れる「砂上の家族」であってはならない。早く「砂上の家族」の基礎を固めるために、みんながそれを真剣に考えなくてはならない時が迫っている。

 彼らの言葉は、「開成高校生殺人事件」や「高校生祖母殺人事件」関係者の証言など、実際の事件資料に出ている。その言葉の中には、家族のものに対するものがかなり含まれている。
 刑法事件の少年は、家族をどう見ているのか。その言葉は、祖母や母を「汚らしい」「低能なものに思い知らせてやる」「心が重いだけ」「単純さ」「無神経さ」「愚鈍なまでの健全さがいやらしい」というものである。これらは、われわれに何を物語るのか、何を言おうとしているのか。熟考を重ねるべき課題である。

 「家庭内暴力」の特徴の一つは、暴力の対象はあくまで家族に限られている。外では、非常に頭もよく、クラスで人気があったり、おとなしい子…、そのような仮面的な生徒が多いと聞く。だからまさか、というのがホンとのところの証言だ。
 「家庭内暴力」事件というのは、特に特殊なことではない。特殊ではない事情で起こることだから、いつでもどこでも起こる可能性をもっている、この問題は…。したがって「これをこうすれば、暴力は起こらない」と言えることではない。一つの処方箋でそれが改善されるわけではないのである。個々人の抱える家庭環境は全同ではないからだ。しかし、事件の根底には共通するいくつかの(原因となり得る)要素が含まれている。


   アノミー型の犯罪

 「教育」という美辞に踊らされてきた親たちの特殊な価値観が少ないうちはまだいい。それが多くなるとお粗末な「日本人の*エスニシティ(ethnicity)(参照「随筆Jul'97」他)」を作り上げていくのだ。だから現代の「日本人のエスニシティー」とは、あまり誇れるようなものではない。そこに自己の同一性が見えないのだ。いわゆる「アイデンティティーの不存在(不在)」である。これでは、どうやって少年の犯罪を防いでいくのか。全く防ぎようがないだろう…。
 このようにエスニシティーの堕落を増長し、ついには学歴偏重志向の*アノミーanomie化社会を作ってきた。これは大人の犯罪であると言わねばならない。結局、その責任は大人が自分で刈り取らなくてはならない。最後に、少年刑法犯の親権者としてだ。

 *エスニシティ…‥ethnicity.民族性、民族集団とは区別し、その集団の属性やアイデンティティーの在り方を指す。HP、会報(97年7月号)・随筆を参照。
 *アノミー…‥(F;)anomie.「規範や価値観がなくなって混沌とした状態」を言うが、個人の自己喪失や精神的不安も言う。


 このような管理社会やアノミー化社会を作った元凶は何か。これを一概に言うのは難しい。だが、親たちの特殊な教育理念のほかに言えることは、敗戦後の動乱期からこれまで何度か変わってきた文部省の教育理念や教育方針にもある。増殖するガン細胞の元凶はこれだ。しかしそれの「受け売り的」な大人たちの、愚鈍なまでの単純さが、ガン細胞を培養する栄養素の役割を果たしたのだと言える。それはたとえば、こう言うことである。時代を大ざっぱに分けて、その時代の社会的な風潮などから見ていこう。

 戦前から戦後まもなくの頃、少年の犯罪や非行と言えば、貧困家庭からの盗みや自転車泥棒程度なもので、それほど異常という事件は多くはなかった。そういう軽微な犯罪から次第に現代のアノミー型の犯罪へと、歴史的に移りゆく社会的な状況によって犯罪は様変りしてきた。

 「1960年代〜70年代初頭」は、世界でもまれな高度成長期の時代である。
 その頃さかんに、消費の美徳がもてはやされたときである。ものを作り消費することが戦後の復興に拍車をかけることになった。1950年頃までは人間関係が極めて濃密であったものが、高度成長と共に民主化意識が台頭し、それによって個人主義思想が生まれてくる。そのため、国民は権利ということばに強く感銘するのである。何しろ戦争以前の日本は、神国天皇制であり全てが天皇のためであった。その時代、個人の権利というものはなかったに等しいかったのだ。そこへ新しい価値観が生まれた。
 産業の復興は、浪費によって拡大していく一方、産業経済社会は高能率的な構造論理を求めていくことになる。その論理に支えられ、そこに人間の価値も資源(物)と同じように計れる価値観が生まれていった。人間性(個性)を剥奪(はくだつ)し、非情にも相手を「物としか見ない」価値観や風潮が出来つつあった。そういう価値観の下で、教育もそのため(産業の能率化)の下受け機関になってゆく。そうした社会的状況は犯罪にも影響し、現われてくる。

 「西口彰連続殺人事件(1963年)」「永山則夫連続射殺事件(1968年)」「大久保清連続女性殺人事件(1971年)」などに表れているように、極めて残虐なものである。その他に、同級生の首を切りめちゃくちゃに刺したり、結婚に反対した一家5人を殺す事件もある。
 高度成長と共に物があふれ、人心は殺伐とし荒廃していく。これは近代型犯罪である。

 「1970年代後半〜現在」までを「社会総管理化の時代」と呼んでも言い過ぎではない。
 この時代には個人の能力は全て統合され、単一的価値基準(学歴)によって人間の価値が決まるような錯覚…、国民の盲信的なこれへの追従が生まれた。いわゆるこのような管理システムに順応できる人間が「有能」であって、それからドロップアウトする人間は「落ちこぼれ組」というわけである。
 この落ちこぼれにしたくないという親の気持ちは解るが、誰もがこのように考え、同調したために、熾烈な受験戦争が始まっていくのだ、結局は…。加えてエリート意識が油を注いでいったのである。

 そうした日本のethic(エシック)に従って生まれる欲求不満や管理社会の閉塞に対する恨みは、ぶつける対象の見つからないまま、止めどなく蓄積されていく。つまり地球のマグマのように、いつ噴火するか知れない不気味さをもって必然的に爆発することになる。しかし、そういう憤懣(ふんまん)や爆発は相手を特定できないのが多い。相手を特定できないまま、反撃するわけだ。だから行きづり的、あるいは通り魔的、無差別的に犯罪は起こるのである。これをよく表わしている事件は、「新宿バス放火事件」だろう。

 新宿駅前広場に通じていく階段で、犯人は酒を飲んでいた。近くを通った通行人に「あっちへ行け」とどなられた。それで頭にきて、発車を待つ乗客30人が乗るバスに火を着けたのである。この犯人と乗客には、どこにも接点はない。どなった通行人がバスに乗っていたのでもない。全く無関係である。頭にきた腹いせ(報復)の対象は、特定できないまま、多数に広がってしまっている。そして無関係のものを巻添えにしていく。犯人はつかまったら「それまで」式に、何とも思っていないのが事件の異常性である。

 これが管理化時代の犯罪の特徴である。この事件には、自分の権利の転倒した解釈がある。自傷的解釈である。「馬鹿にされたのは腹がたつ。おれだって死ぬ気になれば何でも出来る、だからやる」というわけだ。
 産業の能力主義の傾向は、高度成長時代から現代に到り、品物の商品価値と置き換えてしまう価値観に変わってしまった。そういう人間が出世を望み、無知な親どもが一斉に「教育」という大義名文を設けて、その後押しをしている。
 しかし「教育」という大義は、実は子供のためではない。その大義に支えられた親たちのエゴなのである。子供に対する愛や幸福観、躾や教育思想など、そのいずれの(親の)過ちも大義に寄せて、それに逃げ込んでいる。だが、皮肉にもそういうふうに考えた家庭に「家庭内暴力」や刑法犯の少年が多いのである。なぜか。

 子供に対する愛や幸福観など、いずれもファンダメンタルにある「愛」そのものの捉え方の誤謬(ごびゅう)にある。つまり「愛」に対する誤った思想や考え方が、その根元にある。その根元こそ「死の観念」から生起した親たちの下らない*情性、つまりハイデッカーの言う「*気分」なのである。そのプライマリー(原初的)なファクターを無視できない。

 *情性…‥前号、死の観念「孤独と恐怖」1.註*下らない情性を参照。
 *気分…‥ハイデッカーの言う情状性、情状性としての不安を言う。


 ■死の観念「孤独と恐怖」3に続く。(現在更改中)



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