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三諦説「空・仮・中」 '05 

原本;Feb'84刊「さとりへの道」第3章
改訂HP版;Sep'00
改訂HP版2;Aug'01
改訂HP版3;Oct'02
改訂HP版4;15th,Aug'05



 三諦説「空仮中」は、「さとりへの道」より抜粋したものである。幾たびかの改訂を重ね、一部他文書との重複がある。
 ■以下(*)印は、他文書同様の註解を示す(共通)。また(S;)はサンスクリット語の英語表記。



 *釈尊の教説「*四諦十二因縁八正道」をより深めていくと、その根底には空の論理、仮の論理、中の論理と言うものがある。これは*龍樹の言う「縁起は即空、即仮、即中」であり、同じく天台大師*智ギ(中国)はこれを「空仮中の三諦」と言った。
 八正道とは、苦の滅尽の方法であって、修行すれば当然そこに行き着くはずであり、釈尊の八正道にはこの三諦が同時に存在することになる。特徴的にこの三諦説を述べているものに「般若心経」がある。ここでは「般若心経」の詳説は省き、できるだけ三諦説にとどめたい。

 *釈尊…‥(s;)shiddhartha.sakya muni.さまざまなところで説明してある。ここでは省く。
 *四諦十二因縁八正道…‥釈尊は、苦集滅道の四つの真理、すなわち苦の根因は無明にあり、その因縁とそれを滅する道を八正道として示した。
 *龍樹…‥(s;)Nagarjuna.150-250頃、南インド生まれ。バラモンの修学全て終えて仏教に変じた。初期大乗仏教の大論師。「大智度論」「中論」などを著した(異説もある=本文中)。「空」の思想を確立。この思想は後の大乗仏教に大きく影響する。
 *智ギ…‥538-597年。中国天台宗の開祖。名前の「ギ」旧漢字がないため、カタカナを使用。



  (1) 空論

 まず断っておかなくてはならない。先の四諦説、そしてこの三諦説にしても、その理解には各々違いがあるはずで、「空論」を読んだからとてそのものを実感することはまったくない。慈悲の実践を通し、そしてさらには瞑想修行を極めていく時にそれは実感できるものでしかない。だからそのことを誤解せず、手掛かりとして読んでいただこう。

 「空」とは何か。

 多くの宗教家や仏教者によってこれほど論議の的となるテーゼもなかろう。結論として「*空」とは「*?」である。
 「空」が「?」とは…。空にはハッキリ限定したり断定したりできる一切のものはない。少し説明するとすれば、空とは、たとえばすべての働きの場、働きそのものだと言えようか。あるいはまた次のようにも言えるかもしれない。
 広大な宇宙に目をやるとそこに太陽があり、多くの星雲がある。そのなかには我々の住む地球もある。そのすべてが美しくファンタスティックで心を和ませるものだ。陽は毎朝、東の空から昇り、夕べには西へ沈んでいく。そのことを誰も疑うことなく極めて常識的に捉えている。さらに太陽系惑星は自らの周期によって際限なく回りつづけている。地球もその例外ではない。正確に自転をくり返しながら自身の定まった軌道を廻っている。

 なぜ、そのように回るのか。そのことは宇宙物理学的、あるいは宇宙量子学的な説明より可能である。その道の専門家に任せよう。しかしそれとは別に、極めて正確に回りつづけ、他との微妙な関連性を考えるとどうも不思議なことである。不思議なことだらけの宇宙である。その不思議な宇宙の広大で端が見えないほどの無辺の領域を一つの働きの*場(フィールド)として見ることはできないだろうか。
 その働きとは太陽の周りを回り続ける星や地球や、我々の地球とともに回る月、さらには太陽より遠ざかる星など、それ自身定まった働き・作用のことである。この働きと働きの場はだれが造ったというわけでもなく、必然的にそれがそのようになったのである。この働きには、それ自体目的をもっているのでもなく、そこかしこの現象はただそれが生命の営みであるだけである。我々からするとそれを自然のこととして受け取っている。

 そうであれば目的のない*行為(営み)は「空しい」とは言えないだろうか。行為は作用であり、すなわち働き・動きであると見ることができる。
 動くものはむろん常に一定ではないはずである。それらはすべて無常である。無常は空しいといえないか…。生きものすべてが住む地球にとって、自転しながら太陽軌道を回ることによる恩恵には計りしれないものがある。この際、なぜ回るのかは問題ではない。ただ、このような空しい営み・働きがここでの*テーゼ(命題)を探求する際の重要なポイントではなかろうか。

 *空…‥(s;)sunya.これを平明に説くことは難しい。各所で触れている。
 *?…‥拙著「さとりへの道」第3章の中(P140)で、悟りの瞬間、すなわち「空」の経験を平明に述べるとすれば、「?」であるとした。その瞬間を述べることは、実は過去となったことを述べることになる。純粋にその経験事実を述べること自体、もはやその経験の瞬間より掛け離れている。


 *場…‥ここでは単に働く場所としての意味。西田幾多郎はさまざまな次元と層で場を考えた。西田の「弁証法的一般者」は、場所とほぼ同義とされるが、場所にはそれぞれのレベルがある。個物と個物を媒介するもの、すなわち媒介者が場所である。「絶対矛盾的自己同一」も、一つの場を表すものと言える。西田の場合、「真の実在」の探究は「純粋経験」から「場所の論理」へと深めていく。場については、テキスト「講義.西田の純粋経験より1」(P6-9)、またはHPを参照。
 *行為…‥(s;)karma.行為、業。「マハーバーラタ」においては、クリシュナは、行為そのものをヨーガとしている。
 *テーゼ…‥(D;)These..哲学で命題、定立。


 「般若心経」、正確に言うと玄奘が訳した「般若波羅密多心経」では「色不異空、空不異色」と言い、また沙門・智慧輪の訳では「色空空性是色」と言って、その空諦を表している。*色は空と違わないし、空は色と異ならないと言う。而して空とは無常性を言うのであり、決して恒久的なものではない。
 つまり、そこには「常」と言うものを有さないから、久遠の昔から永劫の未来へと変わり続ける働きだけがある。したがってここに主体性はなく、これらの現象に実体性はないのである。それを「空」と言ってもよいだろう。空であるからもろもろの現象とか表象に捉われてはならない。それらの現象を否定していかなくてはならない。空論の説明としては、これでは充分ではない。

 *色…‥(S;)Varna.五薀の一つ、物質を指す。



  (2) 仮諦と中諦

 すべての現象には(さきに見たごとく)本質的に実体性と言うものがなく、無常であった。そこで次の「仮諦(けたい)」というものを表すと、「それだから、今の現象(表れ)のすべては仮相(けそう)である」ということになる。ここでそれを強調すると「すべては仮だから」と頽廃(たいはい)的な考え方に陥るかもしれない。それがそう単純にはいかないのである。仮とは頽廃的でもなく、また無気力や無責任になることでもない。
 そこで「般若心経」では「実体はないのだが…、色不異空、空不異色なのである」と言う。実体はないのだが、まずその現象を見て「仮にこれを手掛かりとして」主客未分の世界、「一」なるものを実感しなさい、と言うのである。

 それについて仏教学者の中村元博士は、次のように言い表わしている。
 「『仮に、このわたしというもので、この現象が動かない』と規定する。その規定したところで、他との関わり合いを見ていく。すると常に外から規定されるわたしは、わたしという現象は、いまとは違うわたし、わたしとは違うわたしになりつつあるのを知ることができるのである。これを理論的にいえば、『常に自己に対立し、自己を否定するものによってまず限定される』。そして『限定されることで、自己を肯定し得る』であろう」と。中村元のことばは見事という外はない。「空・仮」をよく説明し尽くしている。


 ところで龍樹の思想をうかがうとき、その代表的な著作「*中論」(青目訳)を見なくてはならない(実際のところ、龍樹はその頌=詩を残しただけだというのが通説だ)

 かつて*無明があったがゆえに一切の*苦、苦しみの生存があった。だから無明を滅すれば苦も滅尽し、苦の生存も滅していくのである。そこで無明を滅するとは「正しい智慧」による、これすなわち「十二縁起」の修習であったのは今は明らかとなった。その正しい智慧とは縁起を観察していく中で、空であるから「縁起のありように実体性のないこと」を思索する。そのことによって生まれるものでなくてはならないはずだ。

 「十二縁起」の*修習は当然、一切の事物の本性が空であることを見るところまでいくべきである。そこで真実を見性し、無明を滅し苦を滅していけるのである。つまり「空・仮」二諦は、経験的に次の「中諦」に到達しようとしてのことだった、と言えよう。
 ではその「中」とは何か。それは空にしがみつくことでも「仮」に捉われることの、いずれでもない。それが「中」としての立場である。しかし、これでは龍樹の真意を表してはいない。もう少し掘り下げてみたい。

 *中論…‥(s;)Madhyamaka-karika.竜樹の主著。ここでは青目(Pingara)の漢訳(4世紀頃)を見る。
 *無明…‥(s;)avidhiya.真理に明るくないこと。無明は衆生を迷わす根本的な煩悩(klesa)。貪(raga)、瞋(dvesa)、痴(moha)の三毒を言う。
 *苦…‥(s;)duhkha.業を考える時、「苦」は切り離せない。苦の根本因は無明(avidhiya)にある。業によって十二因縁があり、十二因縁は迷妄の世界であり、それすなわち苦である。「一切皆苦」は三苦を含む。三苦とは「苦苦」「壊苦」「行苦」で、苦でないものはないと言う義。五取蘊は無常・苦・無我であるとする仏教の重要な教説である。
 *修習…‥(s;)Abhyasa.bhavana.仏教の類語に薫習がある。薫習とは、衣装箱に入れた香りが付いて残存し、衣装から香り漂うように、経験した事実や事柄が心身に印象を与え、その結果が残存することを言う。
 (サーンキャ哲学)ヨーガでは、心、意識に沈潜する「潜在的な残存印象」を「行」(s;)samskaraとし、それは業を生む根本の業因(s;)karma-asiyaと考える。そして「修習」(s;)Abhyasaの場合は、特段に修行に対して反復修練することを指す。



  (3) 牛乳とチーズ

 龍樹は我々の犯しやすい、時間を直線的に見る誤りを戒める。たとえば「中論」(20-7)ではこう言う。
 「また、もしも結果が完全な和合とともに同時に表れ出るのなら、生ずるものと生ぜられたものが、同一時においてあるという過失に陥る」と。それをたとえてみると次のようになる。
 常識的にバターやチーズが牛乳から作られるのは知っている。バターでもチーズでもよいが、ここでは一応チーズを例にとってみよう。これを因果的に言えば、因は牛乳であり果はチーズになる。
 ここで因と果は同じでないことが判る。なぜなら、因と果が同じであるとすると、牛乳とチーズは同じことになる。したがって因と果は同じではない。それでは原因と結果は必ず別だと決めていいのか、と言うことである。もし別だとしたら、どうか…。たとえば塩は別の材料であり、また別材料の牛乳がチーズの原因となるのだから、塩がその因となってもおかしくはない、と言うことになりはしないか。だが、そんなことはあり得ない。結局、因と果は同じだとも言えないし、別だとも言えないことになる。
 そしてさらに言えることは、結果(チーズ)が原因(牛乳)より先にあることはなく、原因と結果が同時にあるわけでもない。この時にも時間的な因果関係は認められない。
 ではやはり結果以前に原因があるのだろうか。あるとすればどうなるのか。つまり原因が滅して(この場合は牛乳がなくなることだが)、果が生ずると言う時はどうか。この時も因が無となってから果があるから、結果には原因がないことになる。


 龍樹ほどの優れた学者がなぜ、このようなことを言うのだろうか。
 龍樹は縁起をそのような関係や関係性で見ていくと、関係そのものが成立しないことを言うのである。そしてそこには見ているものが、いったん静止して見ているように錯覚し、その錯覚している自己を基準に見ていくものである。しかし中村博士の言うように、見ている自己そのものも常に移り変るものだと言うことを忘れてはならない。
 さらに現在には、過去はすでに存在しないし、未来もいまだあることはない。ここに「一切の言語的な表現は真実を表してはいない」と言えるのである。
 たとえば龍樹に次のような*偈(げ)がある。
 「縁起ということ、それをわれわれは空性と説く。それは因りて仮説であり、それはすなわち中道である」と。

 *偈…‥(s;)gate.短い詩文。般若心経最後の段落のマントラ原文は「gate,gate…‥」と始まる。


 龍樹はこの有名な偈で「言語を離れなさい」と言うことを伝えようとしているように取れるのである。龍樹に言わせると、あくまで言語でのことは戯論(けろん)だと言うわけである。それはただの戯れであって、この戯論の滅した世界が「空なる」ものである。そのように「徹底した否定でしか真実を表せない」という龍樹の論理の一端がおそらく理解できたと思うのだが…。

 「般若心経」の中に六不中道がある。六不(の不二)中道とは、不生不滅・不垢不浄・不増不減のことである。つまり「すべての存在するものは本質的に空で(実体がないので)あって、生ずることもまた滅することもない」と。次に「すべて存在するものは本来清浄であるとも不浄とも言えない」、そして「存在するすべてのものは主客未分の「一」なる世界と見る時に、そこには増えることも、また減ることもない」ことが六不中道である。
 ただ龍樹は中論の初めに「不滅・不生、不断・不常、不一・不異、不来・不去」の八不不二を主張している。

 これまで三諦説を急ぎ見てきた。実際「空、仮、中」の三諦を理解することにはかなりの困難がつきまとうかも知れない。しかしながら智を求める正しい思索には条件的にこの三諦が根底に流れていなくてはまったく無意味なものとなる。それを我々の*ヨーガでは、一体どのように考えているのか。

 *ヨーガ…‥(s;)Yoga.動詞[yuj]からの名詞。[yuj]の原意は「結び付ける」「結ぶ」で、心と身体の結合と解釈される。「ヨーガスートラ」第一章2項の「ヨーガの定義」には「心の作用の止滅することにある」とする。心の働きを止滅することで、これは*綜制から智慧に到り終局の解脱を意味している。
 *綜制…‥(s;)sanyama.平明に言えば集中、瞑想、三昧の三つの総合を指す。佐保田訳の「ヨーガスートラ」他では、凝念dharana、静慮dhyana、三昧samadhiである。次項参照。


   ヨーガと三諦説

 *増谷の前掲書訳注によれば、ヨーガでは「般若心経」の「不生不滅」に類似する思想はかなり古いものである。たとえば多くの*ウパニシャドの中の「ブリハド・アーラニャカ・ウパニシャド」(4.4-25)には、「これは実に偉大な不生の*アートマンである。不老、不滅、不死であり、無畏であり、*ブラフマンである」が見られる。
 また*佐保田訳の「ウパニシャド」によれば、これら「ウパニシャド」群は紀元前8-4世紀ごろの制作と推定され、この年代に多くのウパニシャドが作られたようである。そして「不垢不浄」とほぼ同じ意味での「最高の我・アートマンは清浄無垢である」とする考えはインド古来の習慣的なものだったと言う。
 やはりこの考え方は「イーシャウパニシャド」(6)の「ブラフマンは清浄であり、罪悪に貫通されない」と言うものにも見ることができよう。また「不増不減」も「ブリハド・アーラニャカ・ウパニシャド」(4.4-23)に、「これ(ブラフマンである我)は真のバラモンの永久の偉大である。業によって増大せず、また減らず。人はよろしくその足跡を追及すべきである。これを知れば、悪業によって汚されることはない」という考え方である。


 *サーンキャ、または*ヴェーダーンタの哲学を背景とするヨーガの理念は「*バガヴァットギーター」に脈々と流れており、全編を通して人間存在の空しさ、一切の「もの」の無常を説いている。
 そこで言うヨーガとは行為なのであり、カルマヨーガとバクティヨーガを指す。「バガヴァットギーター」の中で聖クリシュナ(バガヴァット)がアルジュナに「ヨーギンになれ」と言う場面がある。アルジュナに「行為の実践者となれ」と。
 この行為の実践とは、むろんカルマヨーガとバクティヨーガを示唆している。そこでクリシュナの言うカルマや「ウパニシャッド」での「業によって増大せず」の業とは、業本来の意味としての行為や行ないである。
 カルマの原意は「為すこと」「行為」であり、それはサンスクリット語の「作る…Kr(クル)」を語源にしているからだ。業=カルマには多くの考え方があり、縁起説、輪廻などの重要な思想と結びつく。ここで業の考え方、業の思想にもう一度立ち入って掘り下げなくてはならない。

 *増谷…‥増谷文雄。東大文学部博士過程修了。文学博士。仏教学者。
 *ウパニシャド…‥(s;)Upnisad.奥義書。サンヒター(本集)に附随する多くの文献で、神秘的哲学的な内容になっている。ここでサンヒターにはなかった解脱、輪廻などの思想が見られる。普通、これを指してヴェーダーンタの哲学と言う。紀元前6-紀元後10世紀頃までの成立。天啓文学(surti)としてのヴェーダには四種ある。記すとリグ・ヴェーダとサーマ、ヤジュル、アタルヴァの四ヴェーダ。
 *佐保田…‥佐保田鶴治。京都大学教授を経て50才よりヨーガを行じた。その研究と論文は極めて優れている。著書に「ヨーガ根本教典」「続ヨーガ根本教典」「ウパニシャッド」「ヨーガの宗教理念」など多数。
 *アートマン…‥(s;)atman.アートマンには大別してjiva atman(個人我)とparama atman(宇宙我)がある。このアートマンの考え方は、サーンキャ哲学以後のヴェーダーンタ哲学においてである。タントラ教典の一つ「シヴァ・サンヒター」などに、アートマンの語を見出せる。
 *ブラフマン…‥(s;)brahman.漢訳すれば梵。仏教の梵の義とは幾分違う。
 *サーンキャ哲学…‥(s;)samkya.数論哲学。二元的多元論と実在論を併わせ持つ。真我pursaと自性prakritiの二元を立て、自性は多元的に実在するものとしている。サーンキャ哲学についてはさまざまなところで説明している。
 *ヴェーダーンタの哲学…‥(s;)vedanta.「vedaの最後」を意味する。前註*ウパニシャド参照。ヒンドゥに天啓文学(シュルティ)と言われる文献群がある。その中のサンヒター(本集)に四つのヴェーダがある。サンヒターに附随する文献にはブラーフマナ、アーラニヤカ、そして最後にウパニシャッド(奥義書)の三つがある。これが「ヴェーダの最後」の意味である。ヴェーダーンタの哲学思想とはこのウパニシャドを言う。
 *バガヴァット・ギーター…‥(s;)vagabhat gita.神の歌の意。インドの二大叙事詩の一つ、「マハーバーラタ」においてクリシュナが説く真理の教説。



   業とは何か

 *業とは、人間の一切の身(行為)や口(ことば)、意(想い・意思)に善悪の倫理的な価値が付随するものである。そしてそれは*行(サンスカーラ)として潜在的に残存し、意思的形成力になるのだ、と。しかし業の思想と言う時、それだけではない。
 業とは何か。その業とはいったいどういうものか。業の思想(仏教の業論)を宗教的実践の意義から探っていこう。

 *業…‥(s;)karma(n).本文中に説明。
 *行…‥(s;)samskara.潜在的意志の形成力。原意は「作るもの」。さまざまなところで説明している。


 釈尊の「四諦十二因縁八正道」とは、無明から老死にいたる内的な経験の分析であり、いわゆる業の仕組みを解明するものだと言える。
 そこでは人間の生存における「一切皆苦」の根本は、無明・無智(痴)にあって、その無明によって衆生は我見(執着)を起こし、それが煩悩を生み、ついには自由を繋縛していく心的な経験であったのだ。それが苦の人生そのものであった。

 人間は、「不覚」によって*五薀の対象(境)に心が向けられる。進んでそれを対象とするだけではなく、対象に積極的に関わっていくのである。そのことは「三相(種)の不覚」として述べた(「さとりへの道」第2章参照)が、対象に関わっていくことは、行為やことばとして他に認識される、つまり身口の二業として外部に表現されるのである。
 だが人間は心の中で何を思おうが、心の中だけで隠すこともできる。表面に表れてこないものがある。しかし行為(身)やことば(口)としての二業においてはそれをする意思がなければならない。これにはまず何らかの意があって次に行為・ことばとしての業が生まれてくる。
 では行為・行動には、必ず意があるだろうか。必ずそれをする意思が伴うのか、と言うとそうでもない。(第1章のように)通常は行為などには、倫理的な意味での善か悪かの判断基準が付随するものである。それをする意がない場合は単なる運動であって、それは行為とは言えない。なぜか。

 *五薀…‥(s;)panca-skandha.五陰(ごおん)とも。skandhaは「集まり」の義。色薀から受、想、行、識薀までの五つ。人間の肉体と精神を五つの集まりに分けたもの。この五薀(現実を構成している要素)は迷いの世界として存在するものを表し、そのすべては苦だとする「五薀盛苦」がある。



 運動は意をもたない物理的・生理的な動きであり、業は条件的に意とともに生起するものである。意思をもたない、つまり意思を伴わない動きは業とは言えない。しかしそれでも倫理的な判断基準にはなる。それを*無記と言う。
 原始仏教での倫理的な判断には善・悪と、そのいずれにも属さない(善悪に非ざるものとして)無記を立てる。仏教で言う無記が単なる生理的な動き、あるいは物理的な動きであってもやはり行為には違いない。だから善業でもなく悪業でもない、その二元的な価値にふくまれない無記業と言うものがある。

 *無記…‥(s;)Avyakrta.アヴァヤークルタ。釈尊は他の思想家や宗教家などから「霊魂と身体との同異(同じか違うか)」「死後の生存の有無」などの形而上学的な質問(通説では14の質問)を受けた。
 しかし釈尊は黙ったまま、これらには答えなかった。これを無記答、あるいは捨置記と言う。無記は、あらゆるものごとを倫理的に善悪と、そのいずれにも属さないものとの三つに分けたとき、どちらでもないものを言う。厳密には無記業である。
 釈尊の無記答には、大きな意味がある。これについては項を別にする。



 業を因果関係より見る時、問題となるのはむしろ善・悪の業である。仏教は単なる生理的、もしくは物理的な運動生理学を解明するものではない。そこにはヨーガや仏教からする社会的な意義は少しもない。業の理論には少なくとも二つの意義を持っていなくてはならないだろう。
 その一つは人間社会へ倫理的意味を与えるものだということ。二つには、苦と楽の心理的な生活体験である因果の(理)法を持つ、ということだ。
 善因があれば楽果があり(善因楽果)、悪因があれば苦果がある(悪因苦果)と、経験から認められる。しかしこの因果の理法だけでは人間の存在自体を説き明かせない。そこに一つの疑問が残る。なぜに肉体と魂の消滅が同時でなくてはならないのか、と。


 古代のインド人は永世を望みながらも、肉体の消滅と同時に、魂の消滅する根拠はどこにも見い出すことはできなかった。
 サーンキャ哲学において、肉体の消滅は物理的な*五元素に分解されるとする。だが人間は愛する者の死を悲しみ、また自分の死を恐れるのである。なぜ単なる肉体の消滅を嘆き、悲しむのか?。実はここに心、ないし魂が存在するからだ。つまり生命の永世とは肉体が願うものではなく、それはあくまで心で願うのである。
 では肉体が消滅したのち、心や魂はどうなるのか、という不安があった。その不安は当然、肉体の消滅とかけ離れて存する、永世的な魂の安らぎを求めていくことになろう。

 霊魂の不滅と安らぎは古代からの人間の悲願であった。このようにして古代インド人は業論によって輪廻世界へと展開していったのである。当時として、人間における善因楽果(善果)、また悪因苦果(悪果)が現世と未来を規定していく、という考え方は仏教の倫理的な意義を持つものだった。

 釈尊は「*アングッタラ・ニカーヤ」(第一巻)で見るように「業論者であり、*行為(作用)論者であり、また精進論者」でもあったとされる。この行為とは変化であり、働きのことである。働きは動きでもある。その動きとはサーンキャ、もしくはヴェーダーンタ哲学で言う宇宙の根源力・*シャクティの分割された力・生命エネルギーであるし、業とはその動きを本質とする生命エネルギーの表れである。なぜなら生命エネルギーによってのみ人間の行為があり得るからだ。それが業である。しかしそのエネルギーたる業は無秩序に働くわけではないはずだ。ある法則性があるはずである。ではその法則とは何か。そこに衆生の苦を引いていく何かがある。

 *五元素…‥地・水・火・風・空。現象世界を構成する全ての要素を五つにまとめたもの。
 *アングッタラ・ニカーヤ…‥(s;)Anguttara-nikaya.原始仏典「ニカーヤ」は釈尊の教説に近いと言うパーリ語で書かれたもので五部(panca-nikaya)より成る。アングッタラ・ニカーヤはその中の「増支部」を言う。ここではその「増支部」第1章を指す。
 これにはダンマパダ(法句経)の他、スッタニパータ(経集)、テーラガーター(長老偈経)、ジャータカ(本生譚)、テーリーガーター(長老尼偈経)など、かなり重要な経が15経含まれる。ニカーヤは釈尊滅後紀元前4-3世紀頃の作。五部ニカーヤは「南伝大蔵経」として日本でも出版されている。
 *行為(作用)…‥(s;)karman.仏教で作用は「さゆう」と読む。
 *シャクティ…‥(s;)sakti.サーンキャ哲学では真我(プルシャpurusa)と自性(プラクリティprakrti)の二元を立てる。物質性の原理である後者は、三グナによって構成されるが、一方で具体的にシャクティと言うエネルギーに変換される。
 シヴァ・サンヒターにおいては、シャクティはブラフマンの創造的エネルギーであり、これが結合することでブラフマンは自性となる。性的エネルギー、生命エネルギーと呼ばれることもあり、自性とほぼ同義である。シャクティはシヴァ神の后を指し、各チャクラに鎮座している。



 言葉を変えると人間の存在とは、業の複雑な要素を組み合わせた(過去から)現在までの秩序ある複合体とは言えないか。その秩序とは縁起である。縁起は普遍的な法則性でもある。すなわち業因は「縁」という法則性(これは相依相対性と言える)によって業果を引いていく。新たな業を生起する。
 すでに見たように業とは身口意(しんくい)の三業であって、意の業によって身業と口業とが生起する。ここで三業を引いていく意の業が最も重要となる。これは日常の経験でも解るはずだ。
 たとえば裁判でさえも罪を犯した者のその時の意思・犯意が問われる。初めから殺人の意思があったかどうか、その犯意の有無を最も重くみて裁判官は厳しい判決を下すことがある。そのような意思の具現化したものが身口の働き(業)となるのである。つまり、その二業は、意(思惟)によって作られたものである。




   業の本質

 それでは「*業の本質はいったい何か?」と問うなら、それは業そのものの「在り様」を問うているのである。それは現に作用している「現在の状態として」の意味である。だが、意の業としての本質と言えば意そのものであるが、業の本質ではない。

 *業の本質…‥業の本質と言う時は、三業(の全てを含めたもの)の本質を指すが、今の場合「意の業」の本質は「意」そのものである。つまり「意」の業一つだけをもって「業」の本質とは言えない。身口の二業も同じ。


 また身口の業は、意によって働くものだが、身口の業ではあっても、業そのものの本質ではない。つまり身口の二業は意によって働くだけの「在り様」であって、意業だけ、あるいは身口の業だけで業の本質とは呼べない。したがって業の本質とは身口意の三業そのものの状態を指すことになる。
 それら業の「在り様」は現在において体験するものである。その体験はあくまで現在においてのみ可能であって、時間を過去にもどして体験できるのでもなく、いまだ来ない未来で体験できるのでもない。刻々と移りゆく「現在」と言う時の流れの中で、現在でのみ体験できるのである。そしてその体験は現在の時の中にあって、過去の業を引き継ぎ、表れた業果である。それは未来にも継がれていく。
 その業の果をみると、どうなのか。業果はある刹那に消滅し、次の刹那に生成された業によって効力を失うのである。それはどういうことか。


 もし過去の悪の意業がそのまま現在に続くとすれば、未来にも悪い意業として受け継がれていくことになる。悪い意を持っていたとして、次に善い意が起きた時はどうなるのか。この時、悪意が相続され、悪から善に変わらないのなら、人間の改心というものはのっけから否定されてしまう。心、意は念々生滅をくり返すものだから、悪の意が変わらず継続(相続)されるとするなら、これはまったく不合理である。

 十二因縁で言う「無明ありて行あり」と「無明滅すれば行滅する」ように、無明は釈尊によって「明知に転ずることが可能だ」と示されたのである。縁起説での行為・業は念々生成され、念々消滅される。したがって業論においては、現在表れているもの、現在そのものを洞察していくことで、それに過去と未来をふくんでいるものとして洞察することである。
 この現在の洞察こそが人間としての宗教的な実践の意義と言えないか。行為・行いとしての身業、ことばとしての口業、それらは意(思惟)によって展開されていく。つまり思惟する現在の積み重ね、現在の思惟そのものが業論では重要となるのである。

 ところで行とは「業の潜在的に残る印象」であった。
 サンスクリット語ではsamskara=行という語を当てる。その印象とは、一つの行為やことばは、たとえば相手にしばらく記憶として残ると同時に、自身にも後味のようなものが残るのである。残った後味の善し悪しのようなものが印象である。

 身口の二業は外に表れる機能(働き)だから、これらには*表業と言われるものがある。
しかし意の働きは心の中だけで、行為・ことばとして表さないこともできた。何らかを意思したとしても必ずしも行動しなくてもよいのである。それは人に知らしめる働きがない、あるいは他に表示するのが不可能である。つまり、他に表れない業だから無表業と言う。身口の二業は明らかに意によるものであり、この二業には表業と無表業とがある。では、意はどうであろうか。意も業と言われる、と述べたが、厳密には業とは言えない。というのは、意には表業も無表業もないのである。

 *アビダルマ(阿毘達磨)の仏教の説一切有部の代表的な人物である衆賢(しゅけん)は、意にはどうして業がないのか、それを「順正理論」(八十巻)の中で述べる。
 無表と言うのは*非作用(非業)だと思えるのだが、衆賢がそれをあえて業と言ったのは「身口(語)二業を因としてそれに随伴するという意味でいったに過ぎない」(35・大正新修大蔵経29)と言うのである。衆賢はかなり消極的に捉えている。このような意味で限定すれば意は意業と呼ばれるわけだが、しかし表業と無表業はない。

 *表業…‥今の場合、表とは他に「表れる」「知らしめる」の意味で、その業を言う。
 *アビダルマの仏教…‥(s;)abhidharma.教理を指す。それは紀元前2世紀頃からの創作であろう。アビダルマの原意は「優秀な哲学」で、哲学的な体系を重んじた部派。説一切有部は、論拠とする世親の著作「阿毘達磨倶舎論」による。阿毘達磨(あびだっま)とも言う。
 *非作用・非業…‥これを厳密に言えば「作用にあらず」「業にあらず」の意。したがって「作用しない」「作用がない」という意味ではない。非業も同じ。


 身業・口業はいずれも身体的な発現であると言える。行為やことばは身体を通して表現するものである。それらの発現は自己の意思を他に知らしめる(表業)と同時に、その後で心のなかにとどまるある種の印象というものを残していく。印象とは不可視的で、何らかの「在り様」を持っているものである。これが順次薫習され蓄積されていく。それが行samskaraとなるのである。
 ことばの働き(口業)もまた然り、表業とともに後には不可視的なものが残る。すなわち無表の業(無表業)である。これも行だと言える。
 しかし意(心)はそれ自体で発現しうるし、何にも拠らない。意は身口のいずれにも依存しないのであって、それ自身で生滅をくり返すのである。意はすでに見たように、瞬時もとどまることを知らない。集中できない理由はこれである。動いて止まない意はそれ自身で働くのである。

 仮に意が働いて何かを思ったとしても、その心の中はだれにも解らない。動作・表情やことばを抑えてさえいれば他に表れることはない。その動作や顔の表情もそれは身体的な表現ではあっても、心そのものではない。心はそれに依存することはない。ゆえに意には表業も無表業も必要としないのである。
 心は一時もとどまらず、動き転変する。たとえ善心であろうと、そこに絶対的な信頼はおけるものではない。それだから、逆に悪心であろうと、その悪心を改心して善心を持つこともできる、ということが明らかとなった。ここに大きな宗教的な実践、また修行の意義がある。
 龍樹の空仮中の三諦説「縁起は即空、即仮、即中」と照らしていくと、より深く業の思想を理解できるだろう。


 *前章において言語をコミニュケーションの手段として伝えるには限界があると言った。それは龍樹の言う「戯れ」の論理であってはならない、ということに同通してくる。ことばや論理に溺れてはならない。たとえどんなに良い書でも、それに振り回されては結局は戯れとなろう。
 なぜであろうか。それには実体験が伴わないからである。では、実体験があればいいのか、と言うかもしれない。しかしこれも、そうとは言えない。実体験だけでもない。それは体験者の精神的なレベルによるのであって、そのレベルの程度によっては危険極まる妄想に陥ることがある。これでは戯れと変わりはしないし、あるいはもっと始末が悪いかもしれない。私が言うのはこのレベルでの話ではないし、むろん迷妄の世界を指すのでもない。そうした言語を離れ、戯論を離れたところに空性を観じることができるということ。その空性の体験(見性)こそが最も大切となろう。

 *前章…‥拙著「さとりへの道」第2章。


 あなたが真摯(しんし)に真理を得ようと思う時、やはりたゆまない愛の実践、*信愛の行(バクティヨーガ)、あるいは*調気法(プラティヤーハーラ)、*瞑想(ディヤーナ)などの修行によって表出する*智、それら総合するものが多くの障害を破壊し、成就させるのだ、ということを念頭におくべきである。
 戯論でもなく、脆弱な迷妄の体験でもなく、それらの総合する結果として悟りの*智慧(解脱智・プラジュナー)は表れる。それはその智を求め、あるいは*真我の探求(アートマヴィチャーラ)をしていく内的な旅である。そして般若の本源になるだろう慈悲と愛(利他)の実践がそこになくてはならない。それだからその旅というのは愛を見つけ、また愛にふれあう旅なのだとも言える。素晴らしい愛をあなたに…。
 私は心からそう願っている。

 *信愛…‥(s;)bhakti.全身全霊を神、グルへ献げこれを主とした行為ヨーガ。この時のヨーガとは、徹底した離欲の行為のことで、それはすなわちカルマ(善業)であり、バクティになる。有名なラーマ・クリシュナは、寝食を忘れて一心にカーリー女神を崇拝(バクティヨーガ)した。後にヴィベカーナンダなどが輩出された。ラーマ・クリシュナは釈迦牟尼、シャンカラと共に、インドの三大聖者の一人と呼ばれる。
 インドの二大叙事詩の一つ「マハー・バーラタ」で、クリシュナがアルジュナに「バガヴァッド・ギーター」を説くシーンがある。それはそこでは「行為すること」すなわちヨーガの意義を説く。なお、この時のクリシュナは、ヴィシュヌ神の変化身として現れた馬車の御者を指す。
 *調気法…‥(s;)pranayama.調気法の重要性については、多くのところで説いている。意志を堅固、不動に、また集中力を養う上でも気息を調えることは大切である。気息と心の状態は密接に連関するからだ。
 *瞑想…‥(s;)dhiyana.禅定、定を言う。厳密には綜制(s;)samyamaの一つ。禅定は一般者の言う瞑想とは行法、質的段階で大きく異なる。綜制においてのdhiyana(禅定)は、凝念(dharna集中)から禅定、そして三昧(samadhi)へと一連の内にある。それをどこかで分断することは真の綜制ではない。三昧に到ってはじめて智慧の出る条件が具えられるのである。それには心の作用は止滅している。したがって綜制では一切の観想的な、いわゆるイメージの類いはあってはならない。
 イメージやヴィジョンを用いる仕方はこれ(綜制の定)ではない。そういう仕方は、密教などで言う「観想法」に分類される。むろん禅においても、ヨーガ同様やはり観想はない。
 *智…‥次項*智慧を参照。
 *智慧…‥(s;)prajuna.jinana.煩悩を消し去った後に残る真知。般若とも言う。平明に言えば、欲を滅却した時に出る直観知である。この直観知も結局、欲を滅した時でなければ出ないと考える(サーンキャ哲学においても同じ)。言うなれば「離欲」こそが、解脱への重要な鍵になる。初心者はこの直観知を誤解する。第六感などではない。
 *真我の探求…‥(s;)atma vicara.vicaraの原意は「見る」。

 この項終了。


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