業と因縁

説法シリーズ 業と因縁 Jan '96 仙台セミナー

 「業とは何か」「業の本質」については書著「さとりへの道」第3章に述べている。ここでは業は簡略し、主にその因縁について語っている。またホームページ「思想、小論文」中、「三諦説、空仮中」にもある。

 今日のテーマは、「業と因縁」ということですが、(私の)「さとりへの道」を読んだ方が多いようだから、業については割愛して、またタントラ・ヨーガという視点だけではなく、仏教の方向からも述べることにしたい。
 「業と因縁」は、釈尊の説いた教理の中で、最も基本である「四諦十二因縁八正道」に、平明にまとめられています。釈尊は、「アングッタラ・ニカーヤ」という経典の中で自らを「業論者であり、行為論者であり、精進論者である」というわけで、業と、その業から導かれる因縁という問題は、業の論者としては当然の帰結であったわけです。釈尊がいかに業というものを重んじ論じていったか、自分は業論者だというところに表れています。人生の根本問題として、業を解析し、それによって生起する苦を解析し、それからの離脱、解放をひたすらに追求したのです。その理(ことわり)が四つの真理といわれるものです。四諦はそういう意味ですね。
 そこで、人間の生死はただ一回のみでなく何度も繰り替えされる、とするわけです。輪廻転生するという考え方はヨーガと仏教の一般論です。それに現在生きている間の一切に関わって、人間の生き方を規定していくのが業と因縁です。基本的には前世の身口意の三業によって、その結果として次の生へと転生する。業を作るにも、原因と条件があって、それが整えば、結果が生まれる。そういう仕組みだね。これが一つの原因である時もあれば、副次的にいくつかの組合せによって結果が生まれる時もある、と。ただし無視できない要素は、それを整える「場」ということです。「場」ということに関しては、西田幾多郎「場所」や西谷啓治「場の論理」、上田閑照先生(京都大学名誉教授)のいう「場」とそれぞれ主張する「場」の論理や展開に違いはあります。そしてまた、いま私のいう場は、それほど大きく捕らえるのではなく、こういうことです。たとえば生まれるということを考えてみます。
 因縁があって場が整うと、あなたはインドの王族、マハラジャの姫に生まれたかも知れない。場が違うと中国の豪族の娘だったかも知れない。この場は、あくまで「縁」という間接的な条件ですが、重要なため、私は強調しておきたい。前世の業が作り出す直接的な因と、それを環境的に、あるいは場という間接的な条件が整えば、あなたの来世を決めていくわけです。さて来世はどうか?
 場を簡単にいえば、平面的です。たとえば地平線を思って下さい。地球が丸いため、果てしなく長く遠いようにも思えます。いまはそれほど拡大して解釈せずに、自分のいる場所と考えれば良いね。そのどこにいるか、どこにいたかで、次の業と因縁も変わってくるのです。
 あなたは…そう、あなたは日本に生まれ、いまここで、私の話しを聞いている。それでどう変わっていくか。いつもの通り、普段の生活と大して変わらないかも知れない。終わって真直ぐ帰宅するかも知れない。だがどこかでお茶を飲むかも知れないし、知人に会って、どこかで食事するかも知れない。その一つひとつが条件です。たとえば、知人に会ったから食事していた。その時、火事になったとする。こんなに偶然的な出会いは、出会いというのは、知人のことだけではない。偶然に発生した火事も含めてのことですが…、こういうことはあり得ますね。それを偶然といえば、本人にはそのように思うわけですが、それが他の店でコーヒーを飲んでいたら火事には遇わなかった、といえるはずです。そういう意味での場です。
 以前、場に連関したことで「二重世界」「世界内存在」ということを述べましたが、それは場の論理では重要なことです。そういう世界があって場があり得ます。いまはそれを問題にしなくても、もっと身近なことで、例はたくさんあるわけです。
 因縁は、決して偶然ということにはなりません。それがそのようになった、というには、それなりの因縁が在ると見るのです。人間は、予想もしなかったことが起きれば驚き、そして偶然だと処理します。それはあなたたち一人ひとりが、個別に因縁を持っている。それがある時点で、現象として表れるだけです。その現象が、因縁に拠るものだということですね。たとえばあなたに、それが起こったとして、あなただけが、その因縁を集めているのではないね。あらゆる人や物事がそれを含みながら、時を経ている。つまり無常ですから、あなたが中心に物事が起きているのではないわけです。あなたが中心で世の中が廻っているのでもない。そういう無常だらけの無数のものや人や事象が時間を経ながらある時に重なるからそれが起きる。そういう事態が生じるわけです。それを人間は、偶然だと、いうわけです。しかし、火事を出した側から見たらどうなのか、と考えてみよう。その原因はさまざまあるでしょうが、仮に設備の不備から起こったとします。長い間ガスホースを変えず、ひび割れていた、元栓が腐食していたということもある。そして取り扱う人間の不注意ということもある。それが未熟なアルバイトだったりと多くの原因となり得ることが出ます。設備の場合、ホースは、その時間までの耐久性が限度だった。いきなり破れてガスが漏れ、引火することもあるだろう。その引火して爆発する時間とあなたがその店で食事する時間が同時的だった。むろん同時性、シンクロナイズしているが、いま問題なのは、なぜあなたがその時間に、その場にいなければならなかったのか?、ということです。


 「業因業果」の法則があります。善因があれば善果がある。むろん反対の意味で悪因悪果があります。さっきの火災に遇うことは、このどちらか?被害の程度によって、またやけどの程度によって「これくらいのやけどで済んで良かった」と喜ぶ人、重傷の人、あるいはそれで亡くなる人、さまざまでしょう。「業因業果」の法則に則ってみれば、その人たちは、特に良いことをしたのか、また悪いことをしたのか?。知人に会って食事することが良いとか悪いことでもない。
 あなたは、どちらに思いますか?「解りません…」そう、これは良いこと悪いこととは無関係に思えないか。「そう思います。」…ところがやはり因縁があるんだね。火事に遇った直接の原因は、その場に向ったということだね。道でばったり知り合いに会った。そして久しぶりに一緒に食事した。その店が火事になった。そしてひどい被害にあった。つまり火災が発生した店にいたことが、あなたにとっての直接の因ということだね。では間接的な条件というのは何か、ということだね。たとえ久し振りにあっても、食事はその店でなくても良かった。その時に選んだ君自身の問題になる。君自身の固有の因縁に拠るわけだね。仮に中華料理でなく、日本蕎麦だったら店が違っているわけです。その店もまた、爆発したり火事になったりはしないでしょう。あるいは知人にあった場所がそこではなく一駅違っていたら、そういうことには出逢わない。そういう一々の因縁が、人間の未来までを決めていく人間の幸運とか不運というものまで規定していくわけです。人間が運が良いとか悪いとか、その実は因縁のことをいうわけだね。
 そのように人間は、自分の業と因縁によって苦しめられ、弄ばれていくわけで、それを釈尊は苦諦の、生老病死の初めに「生の苦しみ」というわけです。人間の生は苦しみだと。
 ある方が…、うちの会員ですが、これに関して「生の苦しみというのは、生まれる苦しみでしょうか?」という質問があった。生まれる苦しみとは、子供が経験するだろう母の産道を通る時の苦しみのことをいうのではない。生の苦しみは、生まれてから連続する「生きること」自体の苦しみをいうのです。特段に生まれる時の苦しみだけを指すのではない。それは死の瞬間まで、生きること自体に附随する苦しみでね、釈尊は「生」そのものを苦だと断じた。そして老があり、病を得る、死することのいずれも苦だと言ってるのです。
 その苦は、因縁によって現象化する。そういう因縁があったとしても、すぐ現象化するかしないかは、因縁の強さもあります。いま出ないことは、ごく近い未来に出る場合もあるし、来世ということもある。つまり前世からの因縁によって現世に結果が具現し、それと新たに現世において作られた業と因縁が、さらに未来世、来世だね、それに引き継がれていくわけです。これを三世両重の因果関係と呼びますが、釈尊は合理的に十二因縁で説いている。
 もろもろの苦を惹起する業というのはどうしてあるのか?、業についてはこれまで何度も述べたわけで多少重複する点があります。業は「作る」というサンスクリット語から派生したのであって、カルマKarmanは、行動や行為、ことば、意志によって作られるものですから、私は一切の業を作りませんよ…。絶対に作らないということは出来ないわけです。生きている限り…‥。いかに悪のカルマをなくしていくかが問題です。あるいは過去に悪のカルマ、悪業を重ねたという場合、それをどうやって滅していくかが問題でしょう。悪を為さずに生きようとするには、「戒」を守っていくことが重要です。
 ヨーガでは初めに五つの禁戒ヤマyamaがあります。このヤマは悪業をしないように努力すると理解できます。悪業をしないというのは、まだ消極的であって、積極的に修行に向おうと努力、ヴィーリャviryaは、禁戒と同時に勧戒、ニヤマniyamaをしなくてはならないのです。これはヨーガ入門者の基本的心構えになります。ヨーガでは「心の作用の止滅」のことを「ニローダnirodha」といいますが、心の転変を止めること、ニローダが目的です。転変はパリナーマparinamaです。このパリナーマが起こるから、真知、プラジュナーprajna、次の解脱知が生起しないというわけです。解脱知が生まれなければ解脱、モクシャmokshaは得られないわけです。逆にいえば、心を不動にすると初めて*心の清澄が得られ、そこに真知が生まれるとするわけです。
 *心の清澄…‥内面の清澄。サンスクリット語でアドヤートマ・プラサーダadhyatma prasadaという。ヨーガでは、この内面の清澄を得て、その後に真理のみがある「直観智prajuna」が発現するとしている。ここで言う真理は、リグヴェーダでは「永久不変の法」などの意味で使われたリタ[rta]から派生し、サティヤsatyaと言われるようになった。

 付け加えておきますが、ニローダという類語に「静止」スティティsthitiと呼ばれるものがあります。作用が止まるという意味では、同じですが、滅するわけではない。単に作用がない、心の働き・グラハーナ(grahana)がないだけで、集中と大して変わらないことです。厳密には行、サンスカーラsamskaraの中の働きをいうのであり、「グラハーナgrahanaは積極的に対象を捕らえようとする心の働き」ということになります。これは「業遺存karama ashya」ですね。つまり業遺存とは、業に附随するサンスカーラを構成し、助成する後味のようなものです。何か経験した後に残る後味が良いとか、悪いとか、皆さんそう言いますね。そういう思いに似ています。
 釈尊(の原始)仏教でもあります。六波羅密の初めの「布施」の次に「持戒」が出てきますね。出家者には250、あるいは女性修行者、比丘尼と呼びますが500もの戒を授けたといいます。どうです、多すぎませんか?…‥、出家しているとは言え、あまりに多すぎる。後世にいたって浄土宗を開いた法然は、末法の時代に掛かり、その時代には念仏のみが正しいと、戒律を持つことが無意味だと言ったといういきさつがあります。これを「末法無戒説」と呼びます。私も法然に全同して賛成するのではないのですが、タントリズムからすれば、250とか500の戒律にはあまり意味がないといえます。それほど多くの戒律を持たないと、それを守らないと三業を改めることが出来ないといわれていた。それが出家者の修行規定だった。
 いま問題となる業、悪業ですが、それは欲、すなわちクリスタklista(煩悩性のこと)、クレーシャkresaは煩悩ですが、その煩悩からくるということは皆さん承知しているわけです。煩悩の根源には、「無明無知」がある。この無明(avidhya)を滅すれば「明知」「ヴィディヤ(vidhya)」、あるいはチベットでいうリクパが開けてくるわけです。それを得るために八正道があると釈尊はいうわけです。
(この項終り)


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