中道 

説法シリーズ 中道 法話;Aug '97 夏期特別セミナー(東京本部)

北巳 零著「さとりへの道」、およびホームページ「思想・小論文」中の三諦説「空仮中」、仏教思想「中道」と一部重複する。

中道とは…
 今回のセミナーで行ったさまざまなプラーナーヤーマ(調気法)、そして*ムドラーと、瞑想の仕方は、しっかり覚えてほしい。特にサヒタ・クンバカは、シャクティ・プラヨーガに関わる重要なものです。シャクティ・プラヨーガを成就できれば、あなた方に多くの恩恵をもたらすものと言えます。それは断言できますよ。それによって慈悲心を育み、大きな功徳を積む法施に連関してきます。しかしプラーナーヤーマやムドラーは厳しい行です。なぜ、ここでは極端に厳しい行法をするのか?、と疑問を持っている人もいるようです。
 ある人がこんな質問してきました。*エートスターの私のセミナーにも参加したことはなく、私の法話だけを聞きに来る人です。「釈迦は、中道と言っておりますが、タントラはなぜ厳しい行法が多いのでしょう?厳しい行は中道ではないように思いますが…」と言うような質問だった。
 「中道とは、真ん中と言う意味ではない。それには幅があります。皆さんの歩く道と考えて見なさい。両側の歩道は両極を表す*左道と右道です。中には車道があるね。その車道にはかなりの幅がある。その車道の真ん中を中道と言うのではない。車道全部が中道だと。その車道のどこを走るのか?必ずその真ん中を行くことが中道の意味ではない」と。さらに言葉を変えて、「中道を知るには両極端を知らなければ、特定できないんだ」と。つまり両の端を特定できなければ、どこが中か、この場合、真ん中が解りやすいのですが、それを知るにも端がどこか、見極めなければならないわけです。
 釈尊が中道を悟り、苦行を放棄して出山し、ネーランジャラーの河のほとりで沐浴し、スジャータという娘からの供養を受けて後、静かに瞑想に入った。その物語は、みなさん良く知っているはずだね。それまでの6年間の(苦行林へ)入山しての苦行には意味がない、と言った。目は窪み、皮膚は黒ずんで、あばら骨だけの身体になるまでの断食と調気法、そして瞑想と三昧、サマディだね、それは意味がないと言った。しかしその言葉には、大きな含み、内在意がある。それが釈尊の真意だろうと思うのです。真意は何か?。
 天才的な宗教家だった釈尊は、合理的な考え方をする方だ。むろん釈迦族の王子として、父王シュッドダナーの手厚い保護の元、国王の後継者として、十分な英才教育はしてあったと考えられる。ヴェーダーンダ哲学、政治経済学などの治国論など。それらを修習し、収得した後の出家であったね。そういう釈尊が中道に気付き、ついに悟りを得た。出家する前の贅沢な暮らしは快楽の道として、出家した後の厳しい修行は苦行の道として、それは両極端に過ぎる。その両極を避けなさいと言った。しかし私は「そのどちらの極限も知らないものがどうやって中道を知ることができるのか?」と思うのです。たとえばヨーガには、プラーナーヤーマやアーサナの後に、必ず休息を入れる、シャバアーサナや休息のポーズを入れるわけです。その意味は、緩急、あるいは緊張と弛緩のバランスを取る重要な意味合いがあります。そうすることによって一層の相乗的効果を得ることができる。初めて両方の行なり、アーサナなりの効果が生かされるということです。ですから重要なのです。無駄なことは一つもないんであって、少しばかりヨーガをした人間が思いつきで評価するような浅いものではない。無駄に思うような人は、ステージが上がらない。これは修習しようとする側の心の問題になるからです。
 また、皆さんの体験からも解るはずですが、「集中しなさい」というと集中できずに、他に意識を向ける。他のことを考えている。心は思うように制御できない。それは、考える力に意識が負けてしまっているからだね。「それではいま思ったことに集中してみなさい」といえば、それにも集中できない。そういう体験は持っているはずです。それを防ぎ、直感力を引き出すには、徹底した集中の末か、深い深い弛緩の状態、リラックスした時にしか直観が生まれない。脳生理学的にもすでに証明されている事実ですね、これは…。凡夫たるもの、やはり一つひとつ、タントラヨーガの先哲や聖師、そして釈尊の足跡を踏襲するしかないのですよ。しかし、無駄だと言った釈尊は、通常の人間には到底出来ないことだから、ほどほどの行でいきなさい、と言う意味を込めて語った。ほどほどというのは、快楽や怠慢でもなく、そうかといって恐ろしく厳しい行でもない。それでは行の成就はないよ、といいたいのです。中道というのは、緊張と弛緩のほどよいバランスという意味も含まれる。ほどよいバランスを取りながら、精進しなさい、という意味です。したがって真ん中を中道というのではなく、短絡に両極に走ることを戒めたのです。それが釈尊自らの出家前の優雅な生き方と、それを一転した苦行の道から導いた中道という意義でなければならない。
 *ムドラー…‥通常「印」と約される。したがってマハームドラーは大印といわれ、アーサナには同名のものがある。それでいうムドラーはバンダ(締め付け)を伴う調気法でもある。しかし、本来は最終的に解脱のために必要なイニシェーションをいう。タントラ・ヨーガはむろん、チベット密教においても同義である。
 *エートスター…‥東京四ッ谷にあるダイヤモンド他の製造販売会社。代表の田村氏は神秘的なニューウエーブの先駆けとして著名な方だ。特にインドの神秘家サイババに造詣が深い。
 *左道…‥タントリズム(密教思想)には、煩悩をそのまま解脱へ飛翔するための神秘力として積極的に活用しようとする思想がある。これを日本密教では「煩悩即菩提」という。本来、インドのタントリズムにその原形があり、男女の性的結合を象徴するマイトゥナ、あるいはミトナと呼ばれる男女の性交合像がカジュラホにはたくさん残されている。この思想を極限まで高め解脱しようとする一派があった。それが左道タントラである。その後のインドはイギリスの支配下にあり、彼らの目には異色低俗に映った。その悪評価によって次第に地下化していったため、公にタントラは表舞台には躍り出ることはなくなっていった。その地下化も密教といわれる一因となる。日本では真言立川流がその代表である。その本尊は、むろん愛を象徴する愛染明王で、秘仏でもある。チベット密教においても、近代に至るまで、13-17才くらいの女性をその対象とした。


 ところで同じ「中」という言葉があります。たとえば中国天台宗の開祖、智ギが説く「空仮中の三諦」という説での意味は、中道の中とはいくぶん違いますね。三諦説でいう空諦は普通、真俗二諦説での「真諦」の部分です。そして仮諦は、「俗諦」の部分、そこで中諦は、現象面での「空と仮」を超えた本体部分をいうわけです。中道の中と取れないこともないのですが、それには無理があるね。というのは、空諦は「真諦」のことであり、これは存在の否定と考えるといい。あらゆる存在の否定だね。次の仮諦は、先に否定した存在は、実体こそないのだが縁起によって仮に存在するというのが「俗諦」だね、これは肯定になる。あらゆる存在というものを一度否定し、今度は仮に存在するとして肯定していく。これが「真俗の二諦」です。そして次の中諦とはどんなものか?中道の中と同じかどうか?、ということですね。
 もう一つ、「真俗の二諦」に関連していうと、親鸞が中国浄土宗の教義から「*往相還相」といっている。これを簡単にすると、往相は俗世間から出て悟りの世界に向おうとすることだね。未だ俗世間のことだから俗諦、つまり現実に照らした真理ということにもなる。そして還相は、迷いのない世界での真理で、悟りの後に俗世間に戻って法を説くことだね。しかしここで法を説くには、やはり俗諦でなければ衆生には納得できないことだね。真諦は、意約から勝義諦とか第一義諦ともいわれますが、これが最高の真理、という意味で使います。これには多くの説があるのですが、いまは触れないことにします。
 *往相還相…‥「おうそうげんそう」と読む。中国浄土宗の主要な教義。

 ここまでは理解できたかな、整理しないと解らないか…。
 では次のように言い変えよう。「真俗の二諦」というのは、あくまでもこの世の…、あの世でも構わないが、現象面での過程だね。存在がない、否定しても、あるいは肯定しても、いずれも現象面でしかない。しかし世の中には現象面を超えるものがあるわけです。世界は存在だけではないね。つまり空諦と仮諦以外の、存在という現象面を超えた本体のところ…、本質ではないよ、その本体を中諦というわけです。四法印の「諸法無我」が解れば、ここで本質をいうのではないと理解できるでしょう。もし解らない人はもう一度勉強し直さなくてはいけないね。
 今日はここまでにしましょう。


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