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生の価値観 1
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霊性交流
キリスト教指導者との会談

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3 思想・小論文

 中高生諸君よ
 君は天才だ!

 死の観念「孤独と恐怖」1

 死の観念「孤独と恐怖」2

 随筆親と子の絆

 現代少年少女の深層

 随筆日本人の東洋性

 三諦説 空・仮・中

 禅・哲学用語

 随筆 禅の六祖「慧能」

4 説法十住心
(説法十住心は順次更改掲載)
 中道
 業と因縁...ほか

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 「さとりへの道」ノンブル社
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 海苑社

6 Q&A
 瞑想とは?...ほか

7 掲示板

論文
助詞「は」と「が」
の相違の統一的説明
 
中村 薫 (事務局)


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現代少年少女の深層  
新改訂;8th,Mar '97
改訂HP版;Oct '02


 *最近、「たまごっち」や「プリクラ」が特に少年少女の間で凄い人気を呼んでいるらしい。先日も車で、たまたま原宿駅前を通ったときの長蛇の列が、私には少し異様な感じがした。見ると明らかに中学生や高校生である。しかも平日で、普通なら学校なり行ってる時間である。
 ちょうど車のラジオでは、原宿駅前からジャニーズ事務所企画のスターとのプリクラ撮影会の模様を中継していたので、そのための行列だと解った。なぜ、そうまでして「たまごっち」やプリクラが、今どきの少年少女の心を奪うのだろうか。そのことを私の立場から、ここで推敲(すいこう)してみたい。
 「たまごっち」の場合、子供たちの手軽で、そして極めて無責任な仮想的愛(ヴァーチャル・ラブ)の対象物であるのかもしれない。本来、生き物を育てることは愛が基(ベース)にある。その愛の対象がそれである。しかしそれには、動物の餌や面倒見を忘れたとしても、死んでしまうだけで自分にとっての実害や本当の悲しみというものはない。あくまでゲームとして楽しめる無責任さがあるだけで、それが良いのだ。
 たとえば先日の電車の中で、こんな会話を耳にした。「昨日死んじゃったから、新しい卵だよ」と。死んだからと言って、本当に自分の責任になるのは重苦しい。だがそこには、自分の愛情を注げる対象物が欲しいのと同時に、可愛がってみたいという気持ちがある。そういう女の、つまり母性本能がいくらか芽生え始めた少女期なのだろう。しかし本当の生き物のように全部、面倒見たり押し付けられるのはご免だ、という部分もある。あくまで無責任で手軽がいいし、可愛いのがある種のファッション的でもあって、良いのである。持って歩け、気が向けば餌も水もやれる。そうやっていろいろと面倒みることが出来る、という気軽な面が受けたのだと思う。もし死んでも、まだまだ次がある。
 *最近…‥これを書いた'96-7当時。


   プリクラの場合
 「プリントクラブ」が正式な名称らしいが、これも自分や好きな相手と組んで、簡単に写真を写す手軽さが受けたのだと思う。いわゆる自分のポートレートが即作れる(プリントできる)というわけだ。今は、自分の写真シールを友達なり好きな男の子と交換したり、プレゼントしたりが流行っているらしい。
 今、プリクラに通う少年少女たちに、何が起こっているのだろうか?
 先の「たまごっち」との唯一の違いは、プリクラの場合、はっきりとした自己主張がある。裏を返せば、自己を現代社会での記号化、あるいは符号化する社会よりの脱出を計ろうとする潜在的な意思ではないだろうか。現代の少年少女の深層意識には、自分の存在というものが、社会の中で単一化し、自分は記号の一種でしかないという認識を持っていると思う。自分の名前は単なる社会の仕組みの中での符号でしかなく、意味のない記号でしか呼ばれていない、と。そういう潜在的な欲求不満があるのではないか、と。私は時々、大人からこのような相談を受けることがあるから、敏感な子供には尚さら、その思いは強いはずだ。
 プリクラに夢中になるのは、ただ単に面白いというのではなく、ただ格好いいというのでもないだろう。何か、自分は社会での枠組みの中の単一的「符号」からの脱出、あるいはそういうものから必死に這い上がろうとする深層的な意思があるのではないか。
 少年少女は、難しいことや面倒なことはしたくない。だが、だからといって自己も他人も記号化してるのでもなく、まして同一ではない。1人の人間だという強い自己主張がある。その自己主張の側面が今の「プリクラ」に出会い、反応した現象だ。ようするに、自分の存在理由を何かで表現したいという願望だとも言える。その存在を、自分という人間がここにいることを改めて見つめて欲しい。解って欲しい。だから好きな人に、知り合いにも自分の写真を上げるのである。


 プリクラも「たまごっち」も熱中しているのは女の子だけではなく、男子も相当多いようだ。それには、むろんゲームとしての楽しさがある。もしかしたら大人のあなたでも、それにハマっていくかもしれない。ゲームにはそれなりの楽しさがあっていいわけで、別段ゲームそのものをどうのこうの言ってるのではない。少年少女らが、そういうものにしか自分の愛情の対象を求められないことが問題なのだ。子供たちの注ごうとする仮想的愛にしろ、自己表現や自己主張にしろ、それにはもどかしいほどの違和感がどうしても残るのである。子供の心は貧しく、殺伐としている。はっきり言えば人間らしくない。もっと言えば子供らしくないのだ。子供というのは、もっと無邪気で溌剌としていいはずだ。見るとどこか疲れていて、目が輝いていない。
 混沌とした現代社会の中で生まれ育ち、目の輝きを失った子供らは、これまで精一杯、自己主張を繰り返してきた。そしてさまざまな「愛」を求めたのだと思う。父や母、兄弟、そして先生やクラスメート、友達との愛、それは決まって裏切られた。元来子供たちの直観力は素晴しいものだ。だからその鋭い直観力で次を期待していないのではないか。今の世に何も期待していないのではないか。そんな中で何度も愛に裏切られ、そして諦める。そういう学習の中で、だんだん利口になっていったのではないか。そういう利口は、純粋性を失っていく。
 今流行している「たまごっち」は、その直観が選んだ唯一の、自分の愛を注いでいける仮想的愛の対象である。子供にとっては、プレーはその対象への愛の表現なのである。
 本当の生きものであったら、非常に面倒だし、死んだら可愛そう、というのがあるかもしれない。可愛そうに思うか思わないかは、心の成熟にも依るが、可愛そうと思わないということで異常とも極言出来ることではない。
 しかしである。あまりにゲームに夢中になり、それがそのまま他の生き物や人間も同程度にしか思わないのであれば、これは異常であろう。これを私は危惧する。以前にも、またつい最近でも、異常な人気のゲームソフトやあるメーカーのシューズなどが欲しくて暴行や殺人事件が起こっている。これはかなり異常な心理状態である。そういう危険を常に張らんでそれらのゲームは白熱していく。そして勝手にゲームソフトが独り歩きを始めていく。
 つまりゲームソフトはある部分で、開発メーカーの最初の思惑からはずれ、事件を頻発させることになる。メーカーの商魂のたくましさと、子供の群衆的心理を煽っていくからだ。ゲームとして単に楽しんでいる程度は、何も問題はない。だが時として、常識では考えられないことが起こる。「たまごっち」の場合も同様の心配はなくはない。しかし、女の子(の心の底)には可愛いものを育ててみたい、愛を注いでみたいという本能的な欲求、願望はあるわけで、それが「たまごっち」となったのはよく理解できるが…。


  子供の勲章=たまごっち
 大人であっても、ある程度の地位に立つと名誉や勲章は欲しいものだ。それは古今の例を見ても明らかなことだ。
 たとえば、「レジオン・ドヌール勲章」制度を創設したナポレオンが「そんな勲章なんかは、所詮おもちゃではないか」と痛烈な批判を浴びたことがあった。それに対してナポレオンは、こう答えた。「そう言うのは君らの勝手だが、人類が支配されるのは、そのおもちゃによってだ」というようなことだ。これは人の深層意識をついた名言である。
 日本でも叙勲制度がある。これは憲法第7条に基づく天皇の国事行為の一つで、政官界、あるいは経済界から、また最近では芸能やスポーツ界からも叙勲者は出る。確かに人格共に為した業績には叙勲に値すると思うが、厳しい言い方をすれば貰った本人は、勲章をぶら下げているつもりでも、本当は人間が勲章にぶら下がっているようにも見えるが。誤解のないように付け加えたいが、全ての叙勲者がそうだというのではない。
 人間がパーティなどに胸に飾り、きらびやかに装って出席したいのは、勲章の魔力で、これをおもちゃというのも、あながち的を外れていないと思う。おもちゃにはそういう魅力があり人を夢中にされる魔力がある。それからすると、現代の少年少女が夢中になっている「たまごっち」やプリクラは子供たちの勲章なのかもしれない。これを大人が責めることは出来ないだろう。

 勲章もそうだが、人間はどこまでいっても、所詮「快楽」を求め続けていくものである(拙書「君に神を見せてあげよう」参照)。楽しいこと、気持ちいいこと、将来の素敵な夢や希望など、それら全てが快楽に結び付くことを人間は本能的に、あるいは直観的に知っている。快楽なしに人間が何かをすることはない。
 人間が何かをするには、それが如何に尊いことであっても、その先、つまり行為の未来や終局には快楽があると信じているのだ。それを快楽というのがもし僭越(せんえつ)なら、大楽(ヨーガでいうAnandaアーナンダ)と言い直してもよろしい。大楽とは、簡単にいえば悟りの喜び、もしくは解脱する喜びといえようか。崇高な喜びがアーナンダ、大楽といわれる。それには我欲を捨てた奉仕も含まれる。奉仕することによって自己に清く澄みわたる心の充足感というものが生起する。それも崇高な快楽といわれる。そこには正と邪、尊と卑の快楽双方が含まれているのである。

  子供の心
 最近の新聞(読売新聞、平成9年5月22日より連続)の特集で、「医での触れ合い」というのがある。これは私が、常に啓発し予言していることが浮き彫りになったような記事である。次にそれを参考に述べていこう。

 母によると「感情を表に出さず、物分かりのいい、育てやすい子」であった菅野君(16才神奈川県)がある朝、突然登校時になって腹痛が起き、トイレに駆けこんだ。そして学校に向かうと気分が悪くなるという日々が続いた、それ以降菅野君の不登校が始まったのだ。これを埼玉県八潮市の小児科医院の三好医師は「燃え尽き症候群」と診断した。この症状は、幼い頃から考え方が大人びて、周囲に気を配る「おとな子供」に起こりやすいという。学校や親や教師の期待に答えようと緊張し続けた子供が、エネルギーが枯れたように「失速」するケースが相次いでいるというのだ。これらをそう呼ぶらしい。「試験を受けたくない」と泣いたり、「夜が怖い。どうしたら治るの」と泣いた。そういうのは菅野君だけではない。
 文部省の95年度の調査では、全国の小中学生で30日以上欠席したものは、約8万2千人もいるという。前年より4千人以上も増えた。そのうち極度の不安や緊張、無気力などが原因とみられる不登校生徒は、約2万1千人もいる。
 このような症候群に入る子供のほとんどに共通することは、大人から見ると「良い子」ばかりで、まじめで優秀な子供であるという点だ。そして完璧主義で神経質だ。
 三好医師はいう。「(略)大人の期待に答えようと、本質を抑えて、演技し続けているのです」と。一見自律神経失調症にも似たこれらの「燃え尽き症候群」には、薬による治療では効果が薄いという。
 また驚いたことに、胃潰瘍や十二指腸潰瘍にかかる子供が多いという。普通、これらの潰瘍などは中高年がかかる成人病のはずだが、学校生活や家族関係が原因で心因性の潰瘍になるらしい。子供の潰瘍は、治療すれば早期に治るらしいが、ストレスに弱い体質のままではすぐ再発する可能性が高いと、日大名誉教授の大国真彦医師はいう。この他にもさまざまな子供たちの奇妙な症状が報告されている。


 子供たちに降りかかるこれらの症状の原因は、一体何であろうか。一体どこにあるのだろうか。それは、子供を躾る親や大人たちの責任である。容赦なく言えば子供の心理に蒙昧な親の責任である。この場合の蒙昧とは、子供にとっての幸せということに関して真の知恵がないわけで、物事に暗いことだ。つまり親と子の価値的な判断基準の断層から、見当違いのことを期待し、それが子供の幸せだと誤解している。
 子供の将来というのは勉強だけで決まるのでもなく、親に褒められるいい子だから決まるのでもない。それが幸せでもない。そこら辺の親の無知蒙昧は、子供に勉強が出来て優秀なことや、つまらない生きる要領の良さを躾ということで教え、それを期待することだ。親のこの期待は、時にヒステリテックに子供を責める。あるいは暗に強要することだ。
 それだから、私や三好医師がいわれるように、親や学校の先生、他の大人たちに好かれるために演技し続けるのである。習慣のようにごく必然的に「そうじゃなくちゃいけない」ような気がしてくるわけだ、子供は…。子供にそういう価値感を、そういう誤った物事の判断基準を植え付けている親の責任は、非常に重いと思うのである。そういう判断基準が次に犯罪を生起していく。


犯罪と子供時代の心   

 またしても幼児殺害事件が起きた。5月27日早朝、神戸市須磨区の土師(はせ)淳君の頭部が切断されるという残忍窮まりない事件が起きた。淳君の両親の悔しさと、また近くの子を持つ親の不安は計り知れないものだろう。こういう不安を一層煽るような、しかも警察と学校に対する挑戦的な紙切れが見つかったからだ。その予告めいた挑戦状は、胴体を離れた頭部の口に差し込んであったという。
 その残忍な事件前の3月には、今の事件現場より750mしか離れていないところで連続通り魔事件が発生したばかりだ。今回の犯人が名乗った「酒鬼薔薇聖斗」との関連はどうだろうか。それは不明だが、今言えることは、こういう犯罪者の異常な心理は、如何にして起こるのかは、ほぼ推測できる。
 「三つ子の魂、百まで」とは、金言である。私は、近年特にさまざまな方の相談を受けているが、それを私の直感で分析すると、この金言は重要な意味を持ってくる。
 拙書「君に神を見せてあげよう」(海苑社刊)によっても明らかなように、子供から大人までの、いずれの人間でも根本的には思考パターンは高度化してないし成長していない。いくぶん変わったとすれば、ほんの少し生きる上での合理的手順、あるいは論理的な思考が出来る程度になっただけの話だ。本質的には思考のパターンそのものの違いに大きな差異はないのである。
 この考え方を否定する人もあろう。だが、幼い時分の思いが、後の(自分の)人生を決定していることを知らねばならない。例えばである。あなた自身、僻(ひが)みや妬みが一切ないだろうか。ないことはない。ないということは聖人でない限り無理である。人間の精神的発達の過程からして、それは当然あるべきものだからだ。ないと思うのは、大人になる過程で正しくそれが消えていってることになる。
 二人兄弟の場合、片方に親の愛情が偏れば、愛を知らないもう一人の子供は、その愛情不足からいつも寂しく僻んでしまう。自分の方へ親の目を向けたいばかりに、だだをこねたり、すねたり、あるいはひどい悪戯をして叱られることを期待する。そういう過程を正常に過ぎない時、その子供の心は歪んでいってしまうのである。その歪みが消えることはない。その歪みが深層意識に潜伏し、ついには犯罪を犯すのである。

 私は法学部学生の頃、偶然にもさまざまな事件記録を読む機会を与えられた。つまりイソ弁見習いの真似をしていた。それを振り返えると、小さい頃からの思いが、人間の思想や行動の基準を規定していると思う。事件の深層にはそれがうごめいている。だから大人になって、利口になったのではない。少しも利口になっているのではない。少しばかり考え方が論理的になったからとて、高度化しているのではない。それを大人は十分胆に命じておく必要がある。
 人間の思考の仕方は、解りやすく言えば、考え方は三つ子以来、少しも進歩していないということ…、これが現実であって、また真実なのである。

 これまでいろいろ述べたのは、犯罪を犯すものの深層意識には、子供時分の心の状態が深く連関する、ということなのである。現代の少年少女の深層意識を今、我々は正常に人間らしく、子供らしく戻してやらねばならない。「北巳 零・*瞑想アカデミー」の活動がその一助になれば、こんなに嬉しいことはない。
 *瞑想アカデミー…‥当時の呼称。

合掌 北巳 零    



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