▼*去る8月に私は「孤独感と恐怖」と題して会報他に掲載した。それは「死」という「人生の一大事」に対し、もう一度あなたたちに真摯(しんし)に考えていただきたいからである。
原文を尊重した。一部削除加筆。
現代日本の世情をみれば解るように、残虐な事件の頻発と、かなり荒廃している子供の意識…、そのいずれにも精神的飢餓(真の愛の欠如)が指摘できる。その飢餓とは、人間の根底に内在する「死の観念」を抜きにしては語れない。大人一人ひとりにそのことを十分考え直すべきだと…、これは私からの警告である。ここでは「死の観念」の意味から少年の深層、また人間の深層に迫っていきたい。このことは、子を持つ親なら明日にでも我が身に迫ってくる可能性があるのだ。
*去る…‥95年。
信愛の心
「人間は生まれるとき、死ぬときは一人だ」と言う。所詮一人だから、という気持ちはまんざら嘘ではない。これには、ある意味で重要な要素が含まれている。
*ヨーガや*仏教(Buddhism)では、修行の根幹に「離欲(無執着)」や「*少欲知足」を置く。その欲や執着から離れることを(衆生に)平明に説くために、一人だと言ったのである。つまり禅で言う「*無一物」の境涯を示唆している。
「人間は、求めれば切りがない。所詮、死ぬときは何も持って行けないではないか。だから欲に囚われることを止めたらどうだ!」と言うのである。生死に関わらず、日頃より執着を戒めるときに、禅ではこのように言う。今の場合はこれでよい。
しかし、これを転倒した(意味の)取り方もある。「所詮、人間とは生まれてから死ぬまで一人」だとするもので、これが孤独ということである。このような思いを、時として人間は味わうのである。友や愛するものに裏切られた時、他にだれ一人*共感し、感応し合うものもない。そばに支援してくれるものがいない時、往々にしてこのような気持ちを噛み締めなくてはならない。しかしこの時の寂寥(じゃくじょう)たる孤独感は、「心の支え」がないために起こる。
あなたに真に信ずる人がいる場合、どうだろうか。どんなことが起ころうと寂しくない。疑いなく信じ切れる人が、いるからだ。また、あなたが(タントラ修行者で)、グルへの*信愛(Bhakti)があったなら、決して孤独ではないのだ。
*タントラヨーガにおいての*導師(guru)と*弟子(sissya)の関係は、特段に密接であり、その間に他者が入り込む余地は全くない。あくまでグルとシッシャは各々ダイレクトに「精神的絆」で結ばれているのである。その絆は、純粋な信愛心と「*五体投地」によって育まれていく。
*ヨーガ…‥(s;)Yoga.一般にヨーガと言われるのは、美容・健康に良いとして(ハタ・ヨーガの)アーサナのみを取り入れ、そのアーサナ部を指す。愚かにも日本では、それがヨーガそのものとして誤解されている。しかしハタヨーガにしても、アーサナのみがヨーガの本質ではない。ハタ・ヨーガには*タントラヨーガの奥義部・秘伝(ゲーランダ・サンヒター)などがあるのも事実である。
*仏教…‥Buddhism.釈尊の説いた教え。釈尊については多く説明してある。
*少欲知足…‥仏教の汎用語。
*無一物…‥禅語の「本来無一物無尽蔵」。
*信愛…‥(s;)Bhakti.自己を捨てて神仏へ奉仕する心、神を信じる心。バクティを中心とし、そのバクティによって神よりの恩賜(解脱)を授かろうとするヨーガに「バクティ・ヨーガ」がある。
*タントラヨーガ…‥(s;)tantra yoga.7世紀中頃からインドに急速に興ったヒンドゥ・タントリズムが根幹にある。タントリズムの原思想はバクティの思想的運動である。行法はその奥義であるハタヨーガ・プラディピカー、ゲーランダサンヒターなどによる。したがって一般的なヨーガとは異にする。
時に密教ヨーガと呼ばれるが、密教ヨーガとは、タントリックと言う意味でのヨーガと解すべきで、強いて言えば、正確には「密教的ヨーガ」である。
たとえば仏教には7世紀後半、タントリズム(タントラヨーガ)との邂逅で互いに影響しあって新たな密教として成立した経緯がある。しかしその後の思想・行法などは各々大きく異なっている。したがって密教ヨーガではない。
*導師…‥(s;)guru.聖師とも言う。畏敬する直接のヨーガ精神指導者。聖師の類語に聖仙rishiがある。インドのアシュラムで指導する教師などをguruとは呼ばない。先生と言う意味でswami(ji)と呼ぶ。
*弟子…‥(s;)sissya.正式にはグルに誓願を立て、ヤジュニャ・ウパヴィータ(入門用の聖紐)、マーラー(数珠)、もしくはディクシャー・マントラのいずれかを授けられた修行者。グルの直弟子となる。現代はヤジュニャ・ウパヴィータを授けることは少ない。入門と同時に禁戒(s;)Yamaを授けられる。
*五体投地…‥後述「*礼拝」を参照。
*共感、感応…‥互いに感じて反応すること。人間の脳と心の働きから言えば、人間には互いの心や気持ちを推測し、感応する能力がある。イタリア・パルマ大学のジアコーモ・ジッシォラッティ教授が発見。「人の気持ちを写す鏡」という意味から、その細胞を普通「脳の(中の)鏡=ミラー・ニューロン」と言う。セミナー講義「脳と心」注釈「*推測できる」参照。
内外を問わず、宗教、精神世界にはさまざまな指導者が率いる団体がある。それらの中で*礼拝(五体投地を含む)は、欠くことの出来ない宗教的根幹の儀式であり、また作法である。それは信仰の対象を崇め、自己を透哲していく最も神聖な行為である。その礼拝を通して、容易に「迷える衆生」を導こうとする。仏教はむろんのこと、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教もしかり、あらゆる宗教において共通する作法なのである。
したがって「精神世界」において礼拝のない、また崇敬対象のない精神的修行などは全くの遊びであり、それ自体がすでに*妄想である。むろん、それらは精神的次元の高揚には繋がらないし、精神的進化に連関(Linkage)しない。それは精神世界とは名ばかりの、妄想世界での「ままごと」でしかない。
*礼拝…‥崇敬する神仏や聖仙に対して礼拝する根幹の儀式。インドにおいての最高崇拝礼の仕方は、*右遶(うにょう・右旋)と言われる儀式。
*右遶…‥(s;)pradaksinam.プラダクシナム(-クシャナム)。インドの最高崇拝礼の仕方。
貴人(聖仙)やグル、神、聖火などに敬意を示したい時、その崇拝する対象に右肩を向けて、その周囲を右回りに廻る礼拝の仕方。これが仏教に取り入れられ右遶三匝(うにょうさんぞう)となった。
チベットでは、加行として五体投地(後述*入門参照)を修習する。また禅や密教他では立位礼拝ではなく、正座のまま仏の足下を頂くとする作法もある。
*妄想…‥根拠のない思いにしたがって生きる集まり、集団を私は特に「妄想共同体」とし、そのような無明意識を「妄想共同体意識」と呼んでいる。無明ゆえに妄想が生まれる。このような意識はさらに幻影を生み、社会の罪悪となる。
このような意味も含め、グルへの信愛心が非常に重要になってくる。師に対して「揺るぎない信愛の心」があるならば、恐怖とか孤独などの観念は起こりようがない。あなたとグル(導師)は常に一緒なのだから。あなたが何かを思い、あなたが何かをするとき、一瞬たりとも(グルはあなたから)離れることはないのである。だから、あなたは決して孤独ではない、と確信できるのである。
次に大切なのは、物質的な事柄を崇敬の対象としてはならない。全ての物質はあくまで*仮象(けしょう)なのである。故に物質を対象・目的とする思考を改めなければならない。たとえばグルの存在を、ただ姿、形(イメージ)で追い求めてはならない。姿、形で追い求めることは、やはり物質的範疇で妄想の類いでしかない。いかなる聖人と言われようが、この世では肉体を持つ。グルも肉体を持つ。物質的なものに恒久というものはなく、それは非永続的である。しかるにグルであっても、やがて肉体を捨てなければならない時がくる。
物質偏重の思考から、精神性の復活へと進化しなくてはいけない。グルの姿や面影から、より大切な「グルの思想・導き」「その心」へと自発自転し進化していかなければならない。
偉大な宗教には、今やその開祖や宗祖などの聖人はすでに存在しない。存在しないからとて、それら宗教が絶滅したということもない。世界を見て、仏教の開祖釈尊も、キリストや偉大な予言者ムハンマドもまた、すでにこの世にはいない。いないが、しかし彼らの(興した)宗教を信仰する世界何十億人の人々にとっては、その宗教を信じてきたし、これからも信じていくだろう。宗教的思想を語る教祖がいないとしても、それが信仰の絶対的条件ではない。教祖の語った思想・導きがあればよいのである。
*仮象…‥いま在るのは仮の現象を言う。この立ち表れ方は、仮りの相(仮相)である。仮とは、今の姿形はやがて変化し生滅するものとして「ただ在る」に過ぎない。仮相については「三諦説」他を参照。
信仰の原点
「信仰の原点は、思想にある」。大義的には、*文化の原点とは思想に依るのである。つまり宗教は文化である。これは西洋文化の歴史を見てみるがいい。東洋の歴史をひもとくがいい。古代より優れた文化、文明の発達には、独自に発達した宗教思想とその儀式や行事によって、世界の歴史に大きな影響を与え続けてきたことは自明のことだろう。
個人が信仰する上で、「原点となる思想とは何か?」と問われたなら、狭義的には精神的、宗教的指導者、ヨーガでの「グル」の思想なのである。信仰や信愛(バクティ)する唯一の根拠は、そのグルの思想にある。それだから、グルの姿やイメージのみを勝手に追いかけることではない。衆生はそれを追いかけることから早く脱しなくてはならない。
たとえば、偉大な釈尊が涅槃に入ろうとする時、周りで見守る何千という弟子たちは悲しみに暮れていた。そこで釈尊は、「この後は私(釈迦)を拠り所とするのではない。法を拠り所とし、自らを拠り所とせよ」と言われた。これが法灯明、自灯明の根拠である。
そうして初めて、不動の信仰の力が生み出されていくのである。したがって、信愛心(バクティマナス)を培う「五体投地」の行は、本来は厳しい*入門のための試験(加行)に当たる。これを終えて、ようやく本格的なタントラヨーガ修行に入っていくのである。
いままで関わりのあった会員の多くは、このシビァな考え方がどうしても理解できなかった。私の言う「*妄想共同体意識」の流れで、まるで「宗教ごっこ」「ままごと遊び」のようにして、私の下(もと)へ入門する方が多い。それはそれで仕方がない。だがすぐ崩れていく信愛などは一利もなく、本人に不幸や危険をもたらすだけである。
タントラヨーガ修行はかなり厳しい。生半可なことでは命を落とすこともある。その精神が、古くより連綿と根底に潜んでいる。それだから私は、会員には「心より信愛(バクティ)できる方」にしぼっていく。修行者の精神的ステージを上げていくために、それをしなくてはならない。形ではなく、動機や心の純粋性が修行成就の決め手となるからだ。
*文化の原点…‥哲学者・西田幾多郎は「*学問道徳の本には、宗教がなければならぬ」と、宗教と文化に関して述べている。ここでその原点を思想に於いているのは、宗教も含めたあらゆる思想が他のものを生み出している点に立つ。鶏と玉子のごとく、単に宗教と思想の原初の時期を争うことではない。
*学問道徳の本(もと)…‥「善の研究」「哲学論文集第七」などで述べている。講義録「深く生きる」を参照。
*入門…‥チベット密教、中でもニンマ派は本格的な行への準備階梯として10万回の五体投地の加行を要求する。この行で本格的な行に耐える素養、精神的土台を築いていく。
*妄想共同体意識…‥前述*妄想の項参照。
強く戒められて、すぐ退会するものは、単にそれだけの機根しかない。前世を信じる方には、前世での徳の積み方が足りない、と言っておこう。それが機根でもある。私は常にそれを見ていかなくてはならない。私がインドヒマラヤ山中で偉大なグル・S・サダーナンダにされたように…。
私は常に劣ることのないように修行意識の高揚を計っていかなくてはならない。それに加えて、できる限りイニシェーションを得て欲しい、との願いもある。そういうことがあって、初めて不動の境地を得ていくのである。
私は、そこらにいる占い師や霊感師と同類と誤解されてはならない。だから不必要に会員に不安を与えるようなことは言わない。当の会員より聞かれない限り、また相談をされない限りそのようなことは言わない。それがここに来て、ズバリと当たってしまったことが十数件に上るのである。私がそれについて、当該会員に告げるかどうかは、慈悲による。
タントリズム(tantrism)の前提には「揺るぎない(絶対的な)グルへの信愛の心」にある。この前提的条件が肝要である。
たとえば皆さんが医者に掛かるとしたら、信頼できる医者。占って貰うなら、よく当たる占い師。願い事を叶えるには霊験あらたかな神様、と決めるだろう。医者や占い師でさえ、そこに「信じる」ということが前提にある。
私は医者でも占い師でもない。修行によって得た神仏の法力を、過酷な行法を通して皆さんの願望を叶えるだけである。極端に言えば、私自身の体力と生命、そして私の修行によって積んだ功徳とを引き替えるのである。修行の功徳は本当に苦しんでいる方へ廻すもので、それが*真の慈悲である。
道場に来て、ワーク(奉仕)を手伝いなさいと言う。普段は自分のことしか(人のためにしたと言うのは、思い上がりや傲慢でしかなく、これが最も醜い)考えないのだから、少しは他のために無私になりなさい、と。
無私というのは、道場のワークをしたからといって、私が褒めることはないし、ねぎらうこともない。そこで感謝の言葉を求めるのであれば、もはや無私ではない。それで皆さんがどういう心の働きをするか、私は*観心している。人間は*利得ばかりで動くのではなく、利得にならないことに触れる機会を持たなくてはいけない。また私のそば(道場)にいれば、緊急事態には回避のインストラクションを与えやすい。
前提的にその条件が具えなければ、相談を受け、法を修する意味がないのである。そういうことが解らない無明なものがいる。はっきり申し上げると、些細なことでグルへの信愛心をなくすような会員なら、初めから会員としては資格不十分である。そのように信愛の心がすぐ崩れる会員は後にして、特に修行を望むものや生命の危機に瀕しているものを優先しなくてはならない。私は世の*下らない情性に関わってはいられない。
これまでのように、どんな人間でさえも不動の信仰心や信愛(バクティ)を持つことによって、孤独や死の恐怖から解放されていく。故に、絶対的に信じるものはあってもいいのだ。下らない情緒や感性(もしくは感傷)に頼って生きるより、何かを純粋に信じてみなさい。それもできない方は、次を読むことを勧める。
*観心…‥心を観ること。高度な修行者には相手の心の動きや働きを見通すことができる。この場合、他心通に同義。観法で言う「観心」は、あくまで自己の心を対象に観法すること。四顛倒(してんどう)を打破するための観法の四念処の一つ「観心無常」とは自己の心が対象である。
*真の慈悲…‥(s;)maitri-karuna.仏教で言う慈悲とは、与楽と抜苦でその並記された用語で、仏(覚者)・菩薩が衆生を哀れみ、慈しむ心である。「夢中問答」の中で、足利尊氏の弟・直義(ただよし、1306-52)の問いに対し、京都嵯峨の天龍寺を開山した夢窓疎石(1275-1351鎌倉・室町時代)が答える。その答えは「*慈悲に三種あり。一には衆生縁の慈悲、二には法縁の慈悲、三には無縁の慈悲」と。真の慈悲とは、この第三の慈悲を言う。
仏教で言う愛は、執着することで愛着に同義で、慈悲とは明らかに違う。キリスト教での愛(Agape)に大意的には相当すると思えるが、厳密には違いがある。先の語、慈はmaitri友愛のmitra友を、また悲はkaruna悲しみを語源としている。この二語と喜、捨を合わせて「四無量心」と呼ばれる。「四無量心」は、「四つの量り知れない心」として、仏教修行者においての基本的な徳目である。
*利得…‥利益(りやく)。
*下らない情性…‥世界の禅学者・鈴木大拙が「日本人の東洋性」で、日本人の欠点の一つとして挙げている。今は、ほぼ同意。
死の恐怖
*恐怖の観念は、全ての人間に共通する潜在的観念である。恐怖を覚えないものはない。その恐怖は、孤独からも表われ出る。
たとえば長い間、限られた空間に一人で閉じ込められた場合、人間はついに気が狂ってしまう。それほどの恐怖に襲われる。この時、人間は死を予感する。「このままでは自分は死んでしまう」と。それに似た観念は*調気法(pranayama)でも起こる。
ヨーガの調気法で、極限まで*保息(クンバカ)すれば、先ず死に対する強烈な恐怖と出遇うことになる。この保息によって人間は、死を直観的に予測する。そこでこれまで味わったことのない未曾有の恐怖に怯(おび)えるのである。
実はこの恐怖と言うのは死に対してであるが、「死は未知の領域としての不安(恐れ)」の他に、先のように孤独もまた意味する。その孤独とは、両親や兄弟姉妹、家族、愛するものとの離別、つまり別れそのものが孤独と思うのである。これらの対象もすでに人であり、すなわち物質的なのである。物質的であって、精神的な家族や愛するものへの一体感とか絶大な信頼とかはそこにない。更に自己の生命への執着が重なる。こうして恐怖は留まるところなく増幅していくのである。こうなっては、人間は極限状態に追い込まれて精神的バランスを崩していく。ついには精神的欠陥を来す。こういうところが、調気法は厳しいと言われる所以(ゆえん)だ。
*恐怖の観念…‥ハイデッカーの「死の分析」論の中枢的観念。後述する同シリーズ「孤独と恐怖3」の*恐怖の項参照。
*調気法…‥(s;)pranayama.ヨーガには独特な呼吸法がある。語源は「気を止めること」である。これは、気の動きを止める意味にも取れる。それゆえ、保息(止息.kumbhaka)することが極めて重要になる。
*クンバカ…‥(s;)kumbhaka.保息、止息。クンバカには仕方によって三つに大別できる。吸息して止めるプーラカ、および吐息して止めるレイチャカである。そして吐くのでも吸うのでもなく、自然に呼吸を止める「ケーヴァラ・クンバカ」がある。
だがあなたは、少しも心配する必要はない。
あなたが修行するのであれば、私は一時たりともあなたと離れはしない。どこで、どの場所であなたが修行しようと、私はいつもそこにいる。いつでもあなたと、その場にいるのだから少しも心配しなくてよい。そして必要な時には、すかさず重大な指示(instruction)や示唆(suggestion)、あるいは秘儀(initiation)を伝授しよう。だからあなたは「死の恐怖」に怯えたり、おののくことは全く無意味なのだ…と知りなさい。
このことが、はっきり自己のうちに確信できたら、最初の関門は難無く乗り越えられるのである。現に先の*合宿集中セミナー(31.Jul-.1st Aug'95)で、これを経験している会員も多い。
一方、思想家や哲学者たちは「死」をどのように考えていたのだろうか。哲学とは、人間の生きる全ての関わりを思索していく科学である。それらの学者がどのような考えを持っていたか、非常に興味のあるところである。
*合宿集中セミナー…‥会報95年9月号参照。
死に対する考え
今日は、今世紀最大の哲学者と言われるドイツの*マーチン(マルチン)・ハイデッカー(1889-1976)の考え方から「死」ということを取り上げてみよう。
ハイデッカーは、著「存在と時間」での「死の分析」という箇所で「人間は死の観念を持つことによって人間であり、それが動物と違う標識だ」と言った。彼は、死を実存論的に分析していく。実存論というのは、人間一般にとって死というのはどういう意味を持っているのか、ということを論理的に突きつめていくものである。
その結果、ハイデッカーは「人間の存在(Sein)はゾルゲ(Sorge.気遣い)だ」と言う。ゾルゲとは、単にわれわれが「気を遣う」というより彼はもっと広い意味で言う。少しややこしいのでおいおい説明していくが、彼が「人間の存在とは何か」と問う時、当然そこに死ということが問題になってくる。
*マーチン(マルチン)・ハイデッカー…‥Martin Heidegger.1889-1976.ドイツの哲学者。彼の著「存在と時間」(1927)はヘーゲルの「精神現象学」以後の重要な書として、当時の精神界に衝撃を与える。
ところで、人間と動物とは同じ生命種であるが、人間と動物を分ける標識(ここでは簡単に見分けられるサイン、というように考えるといい)とは、労働するとか、言葉を使うからではなく、「死という観念を持っている種であるんだ」と…、それが人間であるとハイデッカーは言うのである。そして人間というのは、動物とは全く違った「幻想のパターン」を持って生きている。その「幻想のパターン」が人間のいろんな気遣いのパターン、形を決めていると。解りにくいかな…。では少し整理してみよう。
要約すると、ハイデッカーが言おうとすることは、人間は動物と違い、死の観念を持っていて、それが各人固有の幻想のパターン(形、形式)を作っている、と。その幻想のパターンがそれぞれ個人の気遣いのパターンを作り上げている、と言うのである。
この構図はベースに「死の観念」、次に「幻想のパターン」、そして「気遣いのパターン」という連鎖になっている。気遣いというのをもう少し話すと、こういうことになる。
会社へ出勤するときに、みんな身だしなみに気を配っていると思う。たとえば、頭がぼさぼさしていないか、ワイシャツは汚れていないか、ネクタイは曲がっていないかというように気を配っている。それがゾルゲ(気遣い)であるが、これは気遣いの根元に「死の観念」があるからだ。なぜ、そういう気遣いをするのかと言うと、髪が乱れていたりシャツが汚れていると、会社のイメージを壊し、迷惑を掛けて首になるかもしれない。首になって仕事がなくなると、家族のものは路頭に迷い、食べていけなくなる。食べていけなければ、自分と家族みんなが死んでしまう、と。このように「死の観念」から、「首」「食えない」という「幻想のパターン」ができ、それを無意識的に避けるように気遣いが生まれると言っているのだ。
われわれ人間は、世界というものを持っているが、その持ち方というのは、ゾルゲ(気遣い)のパターンによって規定されている。だから先のように、パターンを決める根本には死の観念が重要な問題だと、ハイデッカーは考えたんだね。
枚数の制限もあって、今はあまり詳しく言えないが、彼はこのようにして死ということを考えていくわけだ。
そこで死という観念を持つことで、人間と動物とはどういうふうに違うのか、と。人間は常に自由ということを追いかけ、倫理とか道徳というものを考える。これが一つの動物との違いでもあるわけだ。彼はその根底に「死の観念」がある、と言ってるのだ。そういうことを踏まえて、次の「死の現存在の分析」とはどういうものか、という段階に入っていきたい。
「死の現存在」の分析
前述の「存在と時間」で、ハイデッカーはどんなことを言っているのか。それを簡単にまとめると、
●第一に、死は交換できない、ということ。
自分の死を他人が代わることも、他人の死を自分が代わってやることもできない、と。「身代わり死」の場合も、本当は死を代わっているわけではなく(つまり「その人の死」を死んではいない)、自分は「自分の死」を死んでいるだけである。だから死は他人と交換できないのだ、と言う。
●第二には、死は観念として内在する。
死は人間の表象としてある。死は観念だが、それが頭の中で一つの像(表象、いわゆるイメージといえば解るだろう)としてあり、切羽詰まった可能性を持っている。現存在が否定される、今生きること(簡単に言うと、これが現存在である)がすぐに否定される。そういう切迫した可能性があるのだ、と言う。それは、どういうことか。
われわれは、いつ、どこで災難に遭うか知れないという可能性を持って生きている。たとえば、夫がいつものように元気に会社へ向かって家を出た。玄関を出て角を曲がった瞬間、車に跳ねられて死んでしまう。あるいは夫でなくても、自分が同じ目に合うのかもしれないという、そこに迫ってくる可能性、そういう可能性を持って生きているわけだ、人間というのは…。だから自分の胸に「自分もいつ、そうなるか?」という可能性が切迫してくる。また病気にならないようにとか、これは身体によくないから、という気遣いも結局「死にたくない」「死んだら困る」のであって、それら全ての根底には「死の観念」があるからだ、と。死というのは、生きている人には、いまだ経験がないわけだから「人間には観念としてのみ存在している」ということになる。
●第三には、死を隠し、自己を馴らす
人間は死を覆い隠そうとする。隠蔽(いんぺい)しようとする。古代より死を表に出さないように隠すし、死人を放り投げてはおかない。放り投げておかないだけではなく、自分の頭の中を馴らしていく。死を見ることによって「自分もいつか、そうなるんだ」ということは頭からなかなか拭えないわけだ。そこで自分は、「死んだら極楽(浄土)世界へ行くんだ、行けるんだ」というかたちで「死」を考えようとする。これが「馴らす」ということである。このように自分に言い聞かせる、つまり考え方を自分で馴らすのは、死の観念から生まれる大きな不安(Agst)を和らげ、自分自身が安心できるようにしていることになる。
●第四には、死の不安を隠すことによって出た気分が、人間の行動の基礎になる。
これは第三より導き出されたものだ。人間は死を隠し、それによって死の観念は特別な出方で表われてくるんだ、いつも人間には…。まだ死なないのに、死を直視しないように死を隠し、自分を死から遠ざけるように考え自分の頭の中を馴らしていく。しかし根底には死の不安があるわけだ。その不安を*情状性(あるいは情態性)という。早く言うと、その情状性とは*気分のことである。日常的に使う気分とはかなり意味が違う。この気分という語は、哲学上極めて重要である。
ハイデッカーが最終的に言おうとしているのは、「人間は常に、この不安という気分(情状性の一つ)に動かされているんだ…」と。つまりハイデッカーは、何を考え何をしたとしても、それは全て死の観念からくる気分(それが情状性としての不安)に規定されている、と言うのである。このように理解すればよい。
こういうハイデッカーの考え方は、*デカルト(1596-1650)とはまるで正反対だ。
デカルトの考え方から言うと、人間の、ものを考えたり何かを選択したりすることが主体であるというわけで、あくまで意識が主で、身体が従になっている。そのために人間は理性を持っているのだ、と。しかしハイデッカーになると、それを否定するんだね。人間というのは「私は私であって、私は世界に対して常に主体的で意志的な態度を持って動いているのではない」と言う。ここで「主体的-意志」の連関を否定している。「それよりむしろ人間というのは、気分(情状性のこと)が行動の根底にあるんだ」と言うのである。
*情状性…‥情態性(D;)Befindlichkeit.
*気分…‥(D;)Stimmung.
*デカルト…‥Rene Descartes.1596-1650.フランスの数学者、哲学者。近代哲学の創始者で、近世哲学の父と言われる。HP講演録「深く生きる」他を参照。
哲学上の気分というのは、意志的には変えられないものだ。
なぜ変えられないか。人間の意識、つまり私という意識以前にあるものだからだ。それを気分という。それを、それより表面にある意識で根底を変える(了解するという)ことは無理なのである。だからハイデッカーは、了解ということの前提に気分があるというのである。ところが、こういう気分だから人間は気付いていない、気付かないのだ。しかし、その気分というのは、私が主だと思っている意識(自我意識)よりも前提的にあるわけだね。だからそれに気付いていないということなんだ。
彼は大体このようなことを「現存在の分析」で言っているわけだが、結論的に死を自覚して生きなさい、と言うのである。では、ハイデッカーがいう死に対する論理からどういうことが言えるのか、それを考えてみよう。少し難しいかもしれないが、何度も読んで理解してほしい。
欲望とは
これまでのハイデッカーがいう実存とは、人間の根底では孤独であり、絶望している、と。この孤独と絶望を潜在的に秘めているのが人間だ、というわけである。この考え方は少し*キールケゴールと似ている。多分にキールケゴールの影響を受けているようだが、それには今は触れずに進もう。
根底にある孤独というのは、人間の生死という事態は、いつも一人なわけだから、その意味で孤独であるし、死というのは、またどうにも追い越しえない、避け難い規定であるからその点で絶望である。
*キールケゴール…‥Soren Aabye Kierkegaard.(1813-55)デンマークの宗教思想家。
冒頭に述べたように、友や愛するものに裏切られた時、他にだれ一人共感、感応するものもなく、支援してくれるものもいない時、とどのつまり私は一人、というように孤独を思うのである。冒頭の言い方を変えると、この時の孤独という観念は、言葉が他人と通じていかないという時に起こるのである。
人間は世界を持っていると言った。人間は*言葉によって*幻想を生み出す。その幻想によって他の人間、社会、自然という世界を持つようになる。たとえば他の人間や社会との関わりを言葉によって作り出している。その言葉が、最後まで通じていかない経験を持つことによって、孤独を知っていく。言葉そのものが、他人との関係の意識や孤独感というものを生起させていく元になる。
人間は言葉によって幻想を生む…、というところまでは納得いただけただろうか。その幻想には、「私はこうなりたい、あぁしたい」ということがある。人間の欲望である。その欲望には、人間の根底に内在する「避け難い絶望」を覆い隠すための力が常に働くのだ、とハイデッカーは考えた。ある意味でこれが「*生への欲望」、エロスというものだ。言い方を変えると、欲望というのは自我の孤独と絶望を隠すため、あるいは絶望を消すためだ、とも言える。その究極には、自我の意識は完全に到達した、「自己実現した」という存在でありたいのである。
*言葉…‥言葉にはコミュニケーションとしての限界がある。それは未知のもの、事柄などを告げる場合、必ずしも思い通りに伝わらない不便さがある。端的に言えば、音像、イメージや映像などの感覚の領域では、もはや言葉では事実を伝えることは出来ない。だが、それでも人間は考える時、言葉を使うのである。言葉で考え、言葉で自分なりの固有の世界を作っていく。固有ゆえに他と共通し共有することがない。ここに人間同士、感応することの難しさがある。
しかしその反面、言葉で表せない人間の心や感情を完全ではないが推量し感じ取ることはできる。人間はもともと原始的な脳(本能を司る脳幹、海馬などを含む古代脳)を持っており感応する能力を備えてある。が、しかし大脳新皮質の発達に伴い、古代脳の働きは抑圧され、他と*共感・感応することが少なくなった。
互いに感応出来ない時、人間は孤独感、寂静感に襲われる。人間がもっと感応し合えたら、孤独や恐怖、いわゆる「死の観念」の表出も少なくなるのだが。人間は、また言葉によって自由に自分の世界を作り出すために、その作り出した世界、つまりその幻想や幻影(s;)maya世界に溺れることもある。
*共感・感応…‥前項参照。
*幻想…‥(E;)a fantasy.(s;)maya.英語のファンタジーには夢のある響きを持っているが、ヨーガでは幻影(s;)mayaとして修行者は厭離すべきものとしている。真実以外の事柄は統べてmayaになる。
*生への欲望…‥ハイデッカーが言う時のギリシャ語・エロスは、「生ヘの欲望」と言うより男女の「性交の欲望」に近い。激しい性交の欲は、(s;)kama.と言う。リナの弁済を説く一つのインドの教典・カーマスートラにその言葉がある。リナについては会報、HP他参照。
■死の観念「孤独と恐怖2」に続く。