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生の価値観 1
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霊性交流
キリスト教指導者との会談

1 タントラ・ヨーガの思想

2 解脱の智慧

3 思想・小論文

 中高生諸君よ
 君は天才だ!

 死の観念「孤独と恐怖」1

 死の観念「孤独と恐怖」2

 随筆親と子の絆

 現代少年少女の深層

 随筆日本人の東洋性

 三諦説 空・仮・中

 禅・哲学用語

 随筆 禅の六祖「慧能」

4 説法十住心
(説法十住心は順次更改掲載)
 中道
 業と因縁...ほか

5 北巳 零 著作
 「さとりへの道」ノンブル社
  「君に神を見せてあげよう」
 海苑社

6 Q&A
 瞑想とは?...ほか

7 掲示板

論文
助詞「は」と「が」
の相違の統一的説明
 中村 薫 (事務局)


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随筆 日本人の東洋性  
原本;24th,Oct'93
改訂;Dec'93アカデミー会報
改訂HP版1;1st,Aug'97
改訂HP版2;12th,Dec'02

 ◆註;原本より度々改訂を重ねた。原意を尊重しそのため一部に不都合がある。真意を解していただきたい。一部拙著「さとりへの道」およびテキスト、HP「講演録」その他と重複する。



 *二週間ほど前、京都大学名誉教授、*上田閑照先生より、岩波文庫「東洋的な見方」なる著書を頂いた。今や上田先生は*西田(幾多郎)哲学の世界的権威であり、また京都学派哲学の唯一の後継者とも評される方である。そしてまた*禅、および浄土思想をも深く研鑽(けんさん)、深遠なる智慧と認識をお持ちである。
 今回、私が頂戴した著書は、禅の思想家であり世界的に有名な鈴木大拙の多くの随筆を編纂、解説したものである。私はその中で、上田先生の後記「鈴木大拙における『東洋的な見方』」に感銘を受けたのである。先生の一度きりの大拙との出会いがあったと聞く。そのような人間の出会いについて考え、併せて鈴木大拙の思想にも触れていきたいと思う。


 その前に、私は上田先生との出会いから話さなくてはならない。
 1993年晩秋の土曜日、私は*西村惠信先生を訪ねるべく、*アポイントメントも取らず、突然京都の花園大学へ向かった。目的は私の著作についてのアドバイスを戴くためである。
 真っ先に驚いたのは、キャンバスに入った途端、車椅子に乗った学生や明らかに障害者と解る学生が大勢たむろしていたのに出くわした。それが、私のイメージからすると少し不思議な感じがしたからである。しかし次の瞬間に得心した。花園大学は唯一、臨済宗系の大学であったことを思い出した。大学は何も健常者だけの学ぶべき場ではない。まして宗教の理念からすれば障害者に学ぶ門戸を開いてしかるべきなのであろう。
 西村先生に会うまでの約1時間、キャンバス内をあちこち見て回ることになったが、やはり先の学生は多い。しかし見れば、健常者である学生が三々五々に散ってサークルを作っている中で、半数ほどいるのが解った。私はほっとした。これで良い、やはり臨済義玄の思想は生かされていると思ったのである。ついで学食の一つへ入り、あたりを眺めながら時間の過ぎるのを待った。
 2時限終了のブザーが鳴った。飛び出して先生が通るだろう道で待ち続けていた。西村先生がそこを通る保証はどこにもないし、予定がどのようになっているのかも解らずに、私はただ自分の直感を信じそこに立っていた。20分ほどして、見覚えのある元気な姿が遠くに現れた時、私は急いで寄っていった。
 先生の研究室へ通され、そこで思いがけず、上田先生がキャンバス内に居られることを知らされたのである。「上田先生は凄い方だよ。西田哲学は面白いよ」と言われるままに西村先生に同行した。そして今日まで西田哲学を研究する又とない機会を得たのである。これが上田先生との最初の出会いとなった。今、思い起こしてもその講義は素晴しかった。以来、私は毎月1-2回京都へ行くことになった。西田哲学よりも上田先生の優れた人品に全的な信頼を覚え、正に少年のような眼の輝きを見たからである。西村先生の言われた、そのままであった。私には非常に幸運な一時であった。

 *二週間ほど前…‥'97夏本稿改訂当時。
 *上田閑照先生…‥当時、京都大学名誉教授、花園大学客員教授であった。現在('02)はすでに退官し、多くは後学の指導、またドイツ・マールブルク大学他での教授で多忙を極めている。哲学者・西田幾多郎の孫弟子に当たる。2001年「上田閑照集」全11巻、他多数の著書は曙光を放っている。近著「十牛図を歩む」(大法輪閣)は初心者にも理解しやすく平明に書いている。
 *西田哲学…‥哲学者、西田幾多郎は「善の研究」発刊以降、主に京都大学の教授時代以降を中心に独自の思想を展開していった。その優秀な弟子の多さから、京都学派なる思想系統が生まれる。これを一般に西田哲学と呼ばれる。この当時の時代背景からも、そして現代に到るまでも西洋と東洋の哲学の総合として試みた先哲は、外にはいない。西田のこのような思想は、当時日本国内の動乱で、哲学はもっぱら西洋かぶれしていた時期で、哲学の一般的ではなかったのである。西田についてはさまざまなところで触れている。セミナーテキスト他、HP「講演録」を参照。
 *禅…‥京都府長岡京市にある「長岡禅塾」他で参禅している。著名な老師が多く専門家には特に特別視される禅道場。友人の北野教授、山田教授も参禅している。
 *西村惠信先生…‥京都大学大学院博士過程修了。文学博士。2002年現在、京都花園大学学長。1960年にはアメリカペンデルヒル宗教研究所へ留学、キリスト教を研究。著書多数。花園大学は臨済宗唯一の禅学修習の大学。学生の2割強は留学生、障害者が占める。
 *アポイントメント…‥appointment..面会の約束。



 人間にはそのような出会いがあり、人間と世界との関わり合いがある。それを*臨済義玄(-866)は、人間と世界との関わり方を「*四料簡(しりょうけん)」と言い、人間と人間との関わりの仕方を「*四賓主(しひんしゅ)」と言う。臨済の思想として多くの言葉が残されている。たとえばそれ以外に「三句」「三玄三要」「四照用」、また「四喝」ということばである。上田先生との出会いは、果たしてその「四賓主」のいずれかと言うことは、もはや述べる必要はない。だが私は、この偉大なる先生との邂逅(かいこう)と言えるものをその一つに当てて考えると、実に人間と人間との出会いは絶妙な計らいであって楽しく思えるのである。
 今は臨済などの人物を探りながら「四料簡」「四賓主」について述べる。
 *臨済義玄…‥(-866年)生年不詳。唐代、中国臨済宗の祖。言行録に「臨済録」がある。師・黄檗希運からの指示(仏法の大意を三度問われて三度叩かれる)で大愚に逢い、その下で大悟する。大愚の計らいで黄檗に戻って法を嗣(つ)ぐ。黄檗の著「伝心法要」の思想を受け、「無位の真人」説を基本の考え方とした。場祖道一によって大成した洪州宗(南宗…その基本は大機大用の禅である)は、臨済義玄によって「無位の真人」、すなわち「絶対主体の確立の道」として完成した。ここに臨済宗が成立するのである。
 日本には鎌倉時代、大応国師によって伝えられた。その法嗣大灯(大徳寺開山)、関山(妙心寺開山)の系統も生まれる。この三人を指して大灯関の法脈とも言う。
 *四料簡…‥次の*四賓主同様、本文中で説明。
 *四賓主…‥本文中で説明。四賓主についてはHP「講演録」においても語っている。本文中の「三句」「三玄三要」「四照用」「四喝」の説明は省略。



  「四料簡」「四賓主」
 「四料簡」は、絶対的自由を説く臨済からすれば、しかるべき当然のことであったかもしれない。「無事是貴人」のことばもある。臨済の言う無事というのは、内に(仏を)求めて、ただひたすらに己の中に「一無位の真人」を養えと言うことだ。下界の下らないことばかりに惑わされずに、内なる真人に目覚めたものが貴人と言うのだろう。よって下界の下らないことに振り回され、煩わされているものは貴人ではない。
 臨済はその内なる真人の自覚を説く。そのような臨済にとって果たして一切の外の価値はなかったのだろう。特に名と衣に捉れることを戒める臨済は、ことばは、どんなことばであっても所詮*ことばに過ぎない。ここに最も*重要な意味を持つのである。
 だからそのことばに惑わされるな、と強く戒める。人間は衣を身にまとうが、その衣は(真の)人間とは何の関係などないのだ。その衣に惑わされるな、騙されるなと言うのである。だから臨済は、無知蒙昧(むちもうまい)な輩(やから)を恐ろしく激しいことばで啓蒙しようとする。

 初めの句は省くとして「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢(らかん)に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷を殺して始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり」とは、臨済が激しく求め、臨済が生きた禅の境地を表わすものであろうと私は思う。
 この臨済の激しいことばは、あらゆるものから束縛を受けず、清浄高貴な誇りに生きる「絶対的自由」の境地を表わしている。臨済のどこに卑しさが見られようか。全くないのである。激しくも慈悲にあふれる臨済のことばは、私の好きなことばの一つである。

 *ことばに過ぎない…‥「さとりへの道」(第三章「真理」P142-仮諦と中諦.以降)龍樹の戯論を参照。ここで言葉に戯れ、戯れの論理に明け暮れることを戒めている。
 タントラヨーガの場合、先ず言葉や常識、固定観念を完全に打破することから始める。平明に言えば、悟りの内容そのものは言葉を超えなくてはならない。仏教で言えば「無底の底」に到り、さらにそれを破っていくことだ。西田幾多郎は、それを純粋経験と言う。この純粋経験そのものは、いわゆる純粋経験の真っただ中は非反省的なことである。それに言葉は必要はない。西田が純粋経験について述べる時のみ、反省的なことである。それを表す(反省的な)ことは、コミュニケーションとしての言語の限界を露呈するのである。
 *重要な意味…‥タントラヨーガにおいて、あるいは禅や密教においても同じく、悟りに言葉は邪魔でしかない。修行者のみならず、人間は根本的誤謬として、イメージするにも考えるにも常に言葉を仲介して組み立てるのである。人間は如何にしても言葉を離れられない。これが一種の龍樹の言う戯論でもある。一般者、またそこらの瞑想者は、この誤謬に入り、しかもそれで満足している。瞑想者にしてこの程度なのだから拙劣極まる。上記の「*ことばに過ぎない」ですでに明らかだろう。
 私の指導しているタントラヨーガは、先ず徹底して言葉を離れ、固定観念や常識を打ち破ることから修行(加行)を始める。本格的修行の動機によっては五体投地の礼拝も入る。なお五体投地は、チベット密教などの礼拝に相似し日本密教などとは違いがある。タントラ本来の仕方は、右遶(うにょう)する仕方である。右遶は右旋(うせん)とも言われるインド古来からの方法である。しかしこれでは、真の意味で初発のタントラヨーガの目的(加行)を成功させることは出来ない。先ず身口意三業を浄化しなくてはならない。その意義からチベット密教の礼拝は、少し過酷だが有効である。


 私が*指導実践している*タントラヨーガも実にこのような激しさを内包している。このような思想には、ある専門家は違うという意見も出るかもしれない。しかし今は、それに触れる時間はない。そのことは稿を別にして語りたい。
 そういう臨済が説く「四料簡」とは、一つに「奪人不奪境(人を奪って境を奪わず)」、二つに「奪境不奪人(境を奪って人を奪わず)」、三つには「人境倶奪(人境倶に奪う)」、四つに「人境倶不奪(人境倶に奪わず)」である。
 およそ詩人ともいえるセンスを持つ臨済である。ある僧に一つめの「人を奪って境を奪わず」とは、どういうことかと聞かれ、それを見事詩的に言う。「煦日発生して地に鋪く錦、嬰孩(ようがい)髪をたれて白きこと糸のごとし」と。リライトすれば「春の陽射しが、万物を照らし、地にはまるで錦でも敷いたように花が咲きこぼれている。そこに幼子が遊んでいるが、その幼子の髪の白さは、糸のようだ」と。
 これは、暖かい春の陽射し、いっぱいに咲き誇る花ばな、そこに遊んでいる幼子。その全てが自然である。その自然には超自然というものがあって、人間の分別を超えたものを現わしている。いわゆる客観そのものを超え、自然の中に自然を超えた超自然の関わり合いのことを言うのであろう。
 続いて僧は聞く。「では、境を奪って人を奪わずとは何か」と。臨済は「王の命令で天下は平和になり、国境近くの遠いところでも兵馬の行き交う時の土煙はすっかり絶えてしまった」という。ここでもまた、人間と世界との関わり方を臨済独特のメタファーで説明する。世界(客観)というものはすでになく、人間、つまり主観のみが残っていると。これからすると主体性そのもの、世界というのは主観そのもののことを言うのである。
 またも僧は聞く。「では、人境倶に奪うとは何か」と。ここで臨済は人間(主観)と世界(客観)を同時に否定している。つまり人は主、境は客であり、それを同時に否定する絶対否定の関係である。それを「併汾(へいふん)絶信、独処一方」と詩う。
 僧は最後に「では、人境倶に奪わずとはどういうことか」と聞く。そこで臨済は絶対否定を離れ、人間・主観と、世界・客観とが共に肯定される立場を示すのである。「王、宝殿に上れば、野老(田舎の老人)謳歌す」と。

 *指導実践…‥前述「*重要な意味」の項参照。
 *タントラヨーガ…‥(s;)tantra yoga.タントラは本来教典を指す。インド(ヒンドゥ)タントリズムに基づくヨーガ行法。依拠(いきょ)するタントラ教典は「ハタヨーガ・プラディピカー」「シヴァ・サンヒター」、その他のサンヒター(samhita本集)である。したがってタントラ即密教とは言えない。
 密教と言えば、直接的にタントラ仏教(Tantra Buddhism)を指し、それは呪術的修法でその法自体細目に亘っている。タントラヨーガは、顕教ではないから密教的な要素は否定できないが、しかしあくまでタントラ仏教ではない。その法の起源(根本)は、インド(ヒンドゥ)タントリズムであっても、中国や日本密教などのタントラ仏教とは、思想、体系において大きく異なる。テキスト他、HP「タントラヨーガ」「タントリズム」など参照。



 一方の「四賓主」とは、人間対人間の関わりの仕方を言うのである。禅者と禅者の出会いは、常に真剣であると思う。臨済の絶対的自由の思想においては、むろん人との出会いは真剣勝負だと思うのである。その真剣勝負に四つあると臨済は言う。
 一つには「客、主を看る」である。真正の学人(客)は策略をもうけて、膠盆子(膠を溶く器)を差し出す。しかし師(主)はこの策を見抜けず、その盆に捉れて全く自由を失う。そこで学人は喝をいれるが、師はとんと、これに答えることができない。これは完全に師の負けである。
 二つには「主、客を看る」である。これとは全く逆の場合である。師には禅機力量が備わっていて、学人の問いによどみなく答え、学人の全ての問いを奪ってしまう。これは学人の負けである。そして学人はその答えに執着するのだ。
 三つには「主、主を看る」である。人間には直観的な出会いがある。学人がいかにも浄(きよ)らしく師の前に現われる。師はその捉れの境地を知り、学人を谷底へ真っ逆さまに突き落とすのである。しかし学人は少しも揺るがず、平気で谷底からはい上がり、「先生は全く素晴しい」と言う。すると師は、「馬鹿ものめが、善し悪しも解らない奴だ」と。ここで学人は師を礼拝して去るのである。
 これこそ、禅の真髄と思える部分ではなかろうか。正に人間と人間との激しいぶつかり合い、真剣勝負である。
 四つには「客、客を看る」である。これまでとは違い、学人は多くの捉れを抱いて師の前に現われるが、師はさらにもう一つの束縛を学人に掛けてしまう。ところが、当の学人はそれを喜んでいるのだ。二人とも真実などは見ていない。全く真実が見えない二人が、不自由でしかない二人が掛け合う愚かしさを臨済は言うのだろう。



  「鈴木大拙における『東洋的な見方』」
 鈴木大拙の生涯や著作文献については、私の知っている限りでも三名の著名な先生方が著わしている。第1には、大拙に最も長く身近かに過ごしたといわれる*古田紹欽先生の「鈴木大拙-その人とその思想」(春秋社'93)、久松真一氏ほかとの共編著で「鈴木大拙-人と思想」(岩波書店'71)などがある。つぎに私の*師である西村惠信先生の「鈴木大拙の原風景」(大蔵出版'93)がある。そして今回の上田閑照先生による編著「東洋的な見方」がある。各先生方には、それぞれの専門分野において直接御指導を戴いた。むろん私にとっても得難い師なのである。
 たとえば仏教界の大御所でもある古田先生には、インド哲学や禅。西村惠信先生には、禅やキリスト教について御教示願っているし、上田先生には西田哲学を同じく御指導願っている。いずれの先生方へも私は畏敬の念を禁じ得ない。ほかにも私の尊敬する先生方が周りにはたくさんおられるが、その先生方のことはある機会に話したいと思う。今は上田先生の「東洋的な見方」後記を中心に進めたい。

 *古田紹欽…‥(1911-1999)東大文学部哲学科(印度哲学)。文学博士。仏教哲学、禅思想家。北海道大学、日本大学などで教鞭をとった。東大学生の頃から鈴木大拙の身近にいた。西田幾多郎の日記にも「大拙に使いで古田来る」とある。北鎌倉、東慶寺境内にある鈴木大拙の著作他を集めた「松ヶ丘文庫」の文庫長を勤め、長年大拙の研究と著作、講演活動をし先年没した。著書に「古田紹欽著作集」(全14巻講談社)他100冊を超える。私が主に訪ねたのは、東慶寺から入っていく文庫である。古田先生は気さくな面もあり、寒い日に訪ねると自らストーブを付け、熱い紅茶を入れウイスキーをたっぷり注いで饗(きょう)じてくれる。実に温かい思いをした。
 私の知人で古田先生と同じく鈴木大拙の縁戚者「加納白鴎」氏(仏教学者)がいる。この方も素晴らしい。機会を得て語りたい。
 *師…‥guruではない。私が禅仏教に得度し禅道場に入門したのでもない。宗教宗派を越えた指導を受けた師という義である。

 
 私が鈴木大拙に親しみが見い出せるのは、長い海外生活より帰国して後の1960年、90才でインド政府の招きにより1カ月間インドを旅行したことである。そして翌61年には、親鸞の「教行信証」英訳、62年には元花園大学長、秋月氏との共編「語録」(趙州禅師の改訂版)、そして63年にはこの「東洋的な見方」が出版されている。少し加えると94才(1964年)で、インド第1回タゴール生誕百年賞を受けている。1966年7月、腸閉塞のため逝去。
 私にとって禅のみならず、インドにおいてかなり深く敬愛されていることがより私を近づけていくのである。もし同じように興味を持つ方は、古田先生の「東洋の心」や西村先生の「鈴木大拙の原風景」を読まれるがよい。大拙の生涯や思想に詳しい。


 大拙にとって、次のことは重要であったらしい。大拙21才の時、鎌倉円覚寺の今北洪川に参禅を始めてまもなく老師は遷化する。後に、その*法嗣・釈宗演の推薦によって渡米することになった。そしてアメリカ人女性ビアトレス・レーン女史と結婚。通算25年の海外生活は大拙の思想にとって、あるいは禅思想史上においても大きな意義があったらしい。それは大拙にして初めてなし得た「禅を英語で言う」「英語で言うことが禅になる」ことであった(上田)。それはどういうことか。後記解説から見ていこう。
 *法嗣…‥法を嗣ぐこと。仏教の正法は師資相承(ししそうじょう)が前提である。正しい法は師から弟子へと受け継がれる。その継承者を指す。

 (●以下、一部リライトしていく)(略)
 …このようにして大拙独特の生涯は、「西洋的生活世界と禅」という、さしあたっては平仄(ひょうそく)の合わない(例えば、一方が「よく考えて合理的に行え」といえば、他方は「ぐずぐず考えるな、分別を離れよ」というような)特別な事態として始まった。具体的に西洋的生活世界において、根源的に「禅で生きる」ということである。最晩年の長期海外生活も、この大拙独特の事態のあらためての反復であり、さらなる遂行にほかならなかった。ところで、「具体的に西洋的生活世界において、根源的に禅で生きる」という事態は、決して自明な事態でも落ち着いた事態でもなく、とてつもなく大きな、深刻な課題としての事態であった。「西洋の生活世界と禅、この従来歴史的には全く別々で触れ合うことのなかったもの」が、大拙によって一つに連関づけられるべきものとして触れ合うようになったのは、鈴木大拙という「人」においてである。

 『思想の根本的な性格を表わす「東洋的」とは、「到達した思想」のことばとしての「東洋的」である。東洋人だから東洋的であるのではない。むしろ東洋人である日本人が忘れている在り方である。…ある意味での「東洋的」に対しては明確な批判、否認、拒否をしている。「日本人の感傷性」「物の見方-東洋と西洋」においてその批判は強く明確であり具体的である。これは大拙のかねてからの一貫した批判であった』。

 「日本人の心に弱点と見られるものの眼につくのは、分別性をあまりに軽んずるからである。その短所は情的無分別のところに歴然として出てくる」。
 「日本人のただ感傷性に富むこと、人に引きずられてゆくこと、自主的に物事に対する考え方をもたぬこと、理智力の十分に発達していないことなど」。
 「安っぽい感傷性の東洋的なるものにいたっては、大いに排斥すべきだ。この点では、欧米式の合理的なるものを学びとらなくてはならぬ。それで感傷性を置き換えるべきである」。「東洋としては二分性の徹底を学びとらなくてはならぬ」。とは言え、「二分性だけでは人生を尽くすわけにはゆかぬ」、「また割り切れるものではない」ところに人間として生きる決定的なところがある、と言う。

 さらに『大拙は、「東洋的なるものの望ましきをみる」ために「知的限界のいやが上にも広く、霊性的透視のあくまで深からんこと」を要求するのである。あるいは「民族的感傷性を徒に勃発させないで、一方では理智でこれを制すること、そうして他方では情性の深化を計ることにしなくてはならぬ」。このようにして「東洋的な見方」を世界に提出しうるためには、日本人自身が合理性、知性、理智による感傷性の制御を学びつつ(これは一つの訓練)、情性を深化し霊性的透視を深めてゆく(これは行による)ことが大前提となっている』と言う。


 上田先生は大拙が亡くなる1年前の七月、会う機会があったと述懐している。それを皆さんに知って欲しい。その部分を抜粋してみよう。
 …酷暑を避けて軽井沢で仕事中であった九五才の大拙にまる一日午前午後にわたって話を聞くという希有な機会に私は恵まれた。鳥の声が絶え間なく聞こえる林の中の山荘であった。…その日は「臨済録」を中心にということであったので、気になっていたことをいろいろ尋ねることができた。例えば「目前聴法底の人(今ここで説法を聞いているその当のお前たち自身)、火に入って焼けず、水に入って溺れず」と臨済は説法でいうが、「水に入っても溺れないというのは、先生、どういうことでしょうか」と。それに対して大拙先生は何の躊躇もなく自然に、しかも単純にはっきりと「それは溺れるということだ」。私は目が覚めたとはいえないが、何か目が覚めるような気持ちであった。その日はそこに泊まり、翌朝庭に出ていた時、たまたま朝の散歩から帰ってこられる大拙先生を見受けた。いや、見受けたというようなことではない。彼方から真直ぐにさっさっさっとこちらに向かって歩み来たり、私の眼前を、というよりも覚めきらぬ私の曖昧な存在を一直線に貫いて歩み去り、玄関に消えた。それほど速く、無礙に。かろうじて風があとを追うが如くであった。このようにして私は、あたたかでおおらかで迫らない大拙の根源的いのちの無限から無限へと言い得るような純粋な律動に触れた。私が大拙にあったのはこのときが初めてであり、その一年後の逝去までに再び会う機会はなかった。私が大拙にあったのは一生で文字通りこの一度だけである。しかしそれは私にとって、一期一会というよりも、一会一期というべき出会いであった。一度の出会いが一生の充実した出会い、一度の出会いに一生を通じて満ちるものがあると言い得るような出会いであった。…

 そして上田先生は、「大拙の書物にはすでに10年以上も前に出会っていたが、何がきっかけであったか思い出すことができない。おそらく一つの定めであったのだろう」と。
 …九五才の大拙に会う機会を与えられたのであった。そのとき私は大拙が何才であるのか、老人なのか青年なのか、思ってもみなかった。
 それからちょうど一年、大拙は突然の腸捻転腸閉塞のために逝去する。…コロンビア大学での講義の頃から晩年の世話に尽くし、秘書を勤めていたアメリカ生まれのアメリカ育ちの岡村美穂子氏も看護にかかりきりの一人であったが、臨終も間近、"Would You like something?"と尋ねる彼女に答えた言葉が、"No,Nothing, Thank You"であった。
 生を生き切ったというか、生を尽くしたというか、こがねを打ち延べたような九六年のいのちが、"No,Nothing, Thank You"という言葉となってb端的にいえば「無」となって、そしてその「無」が感謝しつつ、芳しい風のように消えていった。
●註;(著者の原意を尊重し、そのまま抜粋している)


日本人へ啓蒙すべきこと  

 私は、上田先生と大拙との邂逅の描写、それに大拙臨終のときの「無」が芳しい風の如く消えるということの表わし方の二重に感動を覚えたのである。実に魂に響くことばではないだろうか。もしこれに何も感じないとすれば、恐ろしく霊性は未熟なものでしかない。まずこの点で、そういう人間はタントラヨーガなどするべきではないと言っておこう。しかるにタントラヨーガを学ぶものは、大拙の言うお粗末な日本人の感傷性に浸るべきではない。それは、理智によって霊性を深化させるべきである。

 特にオウム事件以来、私はさまざまな方の意見を聞くことができたが、その中で最も日本人のお粗末で未熟だと思える点は、全く大拙の指摘する通りである。つまり前述の「日本人のただ感傷性に富むこと、人に引きずられてゆくこと、自主的に物事に対する考え方を持たぬこと、理智力の十分に発達していないことなど」を言うのである。
 妙な感傷性と、その分別は拙劣極まりないし、日本人の意識はすでに*アノミー化している。アノミーとはどういうことかと言えば、社会的な規範や価値観のなくなった混沌とした状態のことであり、そしてまた自己の喪失観なども言う。正に現代日本人の貧困な精神の根源を言い得てることばである。

 今や少年少女たちは、哀れにも日本の社会構造的なこのアノミー現象に揺れ動き、弄ばれている。子供たちはその犠牲者である。その結果が少年犯罪の残虐性に表われている。私は何度もその最たる原因は大人にあると警告し、改革するよう求めている。
 大拙のことばを借りると、その原因は、日本人は本来の東洋性を失い、ただの下らない(安っぽい)感傷性に浸っていったから、と断じるのである。そして尚、大拙の言う「人に引きずられていき、自分自身では一切の物事を分別できない。理智の力が未熟な(十分に発達していない)」のである。これが現代大人の、いわゆる日本民族の*エスニシティーethnicityなのである。
 *アノミー…‥(F;)anomie.本文中で説明。
 *エスニシティー…‥(E;)ethnicity.民族集団、民族性。集団の属性やアイデンティティーの在り方を言う。本文に後述する。


 これまで「東洋的」ということを述べたのは、「どういうことが東洋的と言えるのか」「何が東洋的なのか」を皆さんに知って貰うためである。
 大拙が言う「東洋人としての日本人だから東洋的というのではない」のである。東洋的とは、専ら東洋人を指す意ではなく、西洋人においてさえも東洋的ということができるということ。欧米人でも東洋的なるものがあるということ。大拙は、いわゆる古来より伝統的に持つ優れた東洋性が失いかけている現代に、その東洋性の復権を強く望むのである。日本人は、情的無分別や安っぽい感傷性であったりしてはならない…と。それを排斥するには、一つの訓練によって「日本人自身が合理性、知性、理智による感傷性の制御を学ぶべきだ」と。さらには「情性を深化し霊性的透視を(行によって)深めてゆけ」と言うのである。

 日本民族のエスニシティーとは如何なるものであるか。エスニシティーとは、元来その民族の属性とか、アイデンティティーidentityの在り方を指すことばである。いわゆる日本人の優れた気質、アイデンティティーは自己の存在意識とか自己同一性ということであるが、それは古来より勝るものがあったと言われる。簡単に言えば、自分というものがはっきり確立されていた。しっかりと日本人としての誇りと、今ここにいる自分というものを失うことはなかった。ところが現代はどうであろうか。
 特に少年少女の多くは、社会のアノミー化現象に翻弄され、彼らの目はいつもトローンとして不気味である。その目は無関心であり冷酷さを表している。しかも現実逃避型である。それはほとんどの大人たちにも同様に当てはまるだろう。このどこに、日本人として誇れるものがあるのか。
 変な「安っぽい感傷性」のみをかかげ、それにおぼれている。「安っぽい感傷性」は「東洋的なるもの」での排斥すべき欠点として、今浮上してくる。何事を決定するにも自分ではなく、他人に流されていく。そこに自己同一性はない。

 そのような人間が何かを決める時、好悪とか感傷性によって決めるのである。物事の善悪ではなく、感情的な好き嫌いだけ、下らない感傷性によって決めることで、それは決して物事の正鵠(せいこく)を射ることはできない。いつも的外れ、out of pointなのである。自分の幼稚さ(無明)と無能さを同時に相手に知らしめていくだけである。およそ理知的な人間はそのような事に関わらないであろう。下らない感傷性のことだからだ。
 いわゆる好悪の感情というのは、人それぞれ、各個人によってさまざまである。たとえば、あるものはAは良いが、Bはだめ(嫌い)だと言う場合、どちらが正しいことか否かは第三者が決定できるようなことではないし、それは意味はない。つまりそんなものは好きであろうと嫌いであろうと、どちらでも良いことである。それを的の場外で、大声で喚きたてているようなものだ。ほとんどの場合、この程度でしかない。事実、これほど救い難いものはない。それが日本人の笑えそうな「エスニシティー」ということだろう。

 大拙はここに、東洋性ということ、また「東洋的」という大拙自身の思想で、日本人に大きな喝をいれるのだ。東洋は「二分性を徹底」していないという。「二分性のみで人生を尽くすわけではなく、またそれで割り切れるものでもない」のだが、しかしそれでも二分性を徹底せよ、それが東洋の弱点だ、と言うのである。そして、その弱点を克服するためには、「十分な理知の力」を持たなくてはならない。理知とは、単なる知識の類いではない。理に叶った知恵のことである。安っぽい感傷性を排斥し、欧米的な合理性を学んだ上に、二分性を徹底して表われる知恵であろう。少なくても大拙は、そのように望んでいるのかもしれない。


 日本人は「東洋的」であるために、すべからくこの弱点を克服するべきである。今や日本は、その大きなターニングポイントに差しかかっているのだ。それ(弱点)に克つことができなければ、日本の社会構造的な*カタストロフィーは間もなくである。それはほぼ間違いない、と言っておこう。
 貧困し、荒廃している日本人のエスニシティーとは、父権の威厳を奪い、生命を奪う倫理観の希薄とも言えるのである。そういう大人社会が、子供を容赦なく苦しめ、不満のはけ口をふさいでいく。寂寥(せきりょう)たる子供たちの心には、埋め尽くせない風穴がぽっかりと開く。そこは決して温かくはなく、冷たい風が吹き込むところだ。そこにはごみも塵も吹きだまる。その吹きだまりは、次第に心の歪みを生む。それが結果的に犯罪の目を生起させているのである。
 *カタストロフィー…‥catastrophe.破局、破滅。1970年代、フランスの数学者R・トムが提唱したカタストロフィー理論(theory of catastrophe)は、数学上の破局の理論である。

 このような子供を救うのは、大人の心からの理解と慈悲である。子供を甘やかし、わがままに育てることではなく、倫理観を養い、物事の自主的判断力を養わなければならない。それを断固為すべきであろう。これには大人がいつものように、子供を怖がっていてはしょうがない。
 世の父親よ!父権を復活せよ。
 父権とは、何もガミガミ言う事ばかりではない。父として、言うべきことはもっと大きいはずだ。へらへら優しいだけの父では慈悲に背く。そんなのは慈悲ではない。無愛想でもいい、ただそこに存在する威厳、父の威厳というものがあってしかるべきだ。頼りになる、何となく怖い、父とはそうした存在でいい。子供は、一方でそのような*父(のイメージ)を望んでいる。それが子供の尊敬に値する父親像であろう。
 *父のイメージ…‥警察白書、その他のデータで、触法少年の多くは、父に対して「殴られても良かった。叱って欲しかった」を揚げ、それを最も望んでいたことが解る。世の父親は子への接触に戸惑いがある。どのように接して良いのか解らない。つまり自分の成長期に、親子の触れ合いを学んでいないのだ。また戸惑いには、なるべく良い父でいたいと言う欲もある。詳しくはテキスト「随筆 親と子の絆」「少年少女の深層」「少年犯罪」他、HP参照。


 私は今さらのように、父権そのものの失墜に悲嘆する。父は、父権を取り戻さなくてはならない。恐れず、子供の心と向き合わなくてはいけない。今はその時期を過ぎようとしている。急げ…、急ぐのだ。そうしないと子供の反逆、非行を未然に防ぐことはできないのである。(この項終わり)



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