深く生きる
ここでは講演録より一部抜粋し概説した。また十分に言い尽くせなかったことを併せて追補する。私は「ある想い」によって時に諸先生方の敬称を略する場合がある。一部HP「随筆・日本人の東洋性」を参照。
今日のテーマは「深く生きる」ということですが、「深く」とはどういうことか?「深く生きる」とはどのような生き方なのか?
私の経験から、そして私と著名な哲学者、禅や仏教学者との交友関係からテーマを進めていきたいと考えます。その関係などは後に話したいと思います。
人間が生きるということは「人と人との間の関係」つまり「人間と人間の関係」そして「人間と世界の関わり」の中で生きることです。*臨済義玄は、「人間と人間の関係」を「*四賓主」といい「人間と世界の関わり」を「*四料簡」と見事にまとめております。
「四賓主」の1番目は「客、主を看る」です。客、この場合は学人や僧と考えればいい。客・僧が優秀で主・師が劣る場合です。学人は策略を持って師に膠盆子(こうぼんす)を差し出す。師はこの策略を見抜けず、出された途端それに捉われ自由を失ってしまうのです。学人は渇を入れるが、師はこれに受け答えできない。これは完全に師が劣っている。師の負けですね。2番目の「主、客を看る」は逆の場合で、師は優秀で学人が劣る場合です。あとの二つは両者とも優秀か、両者とも凡愚のものか、と言うことです。「四料簡」についてはいまは省きます。
*臨済義玄…‥生年不詳、866年没。中国臨済宗(禅宗)の祖。
*四賓主…‥臨済の言葉。人間と人間との関係を言う。「客、主を看る」「主、客を看る」「主、主を看る」「客、客を看る」の4つ。
*四料簡…‥同じく臨済の言葉。人間と世界との関係を次の4つに分ける。「奪人不奪境」「奪境不脱人」「人境倶奪」「人境倶不奪」
生きるということは、このような人間と人間、人間と世界との関係が生まれて来ます。この中でしか生きられない。人間が生きる、つまり人生です。端的に一つの人生を生き切ることが一つの生、一生になるわけで、そこで深く生きるとはどう言うことか?
私は2-3ヵ月に一度、京都大学の西田哲学研究会に参加します(それとは別に京都哲学研究会も3ヵ月に一度ある)が、私を除いては哲学の分野でことに著名で優秀な教授・先生方ばかりです。その先生方が最も畏敬の念を持っている元京都大学名誉教授の上田閑照先生がおります。上田先生は哲学の世界的潮流となった京都学派哲学を創始した西田幾多郎の多くの弟子の中で、西谷啓治(敬称略)の弟子に当たります。実は私の友人知人、そして先生方との関係はここら当たりが基礎になります。
西田幾多郎は1870年、明治3年ですが石川県の宇ノ気村に生まれました。19才に*金沢第四高等中学に入った。17才から数学を北条時敬について学び、北条宅に寄宿しここから通学することになります。
金沢四高には優秀な人材が多く、同級生には禅の思想家で親友の鈴木貞太郎(大拙)、国文学者の藤岡作太郎(東圃)、そして*金田良吉(晁水)がおります。時に西田を含めた三人を「金沢の三太郎」といいますが、あとでその西田の親友、鈴木貞太郎大拙や禅の師(師家)にも触れたいと思います。
金沢四高を中退して、西田21才(1891、明治24年)の時、帝国大学文科大学(現在の東大文学部)哲学科の選科に入学するわけです。この選科というのは、西田にとって屈辱的に虐げられたものだったらしい。「当時の選科生と言うものは、誠にみじめなものであった…」と、そのことを手紙や図書(昭和17年、第12巻)に寄稿しています。この東大在学中から「カント倫理学」を書き、鎌倉の建長寺、円覚寺に参禅弁道したのです。明治27年(1895)、石川県に戻り、翌年従姉妹の寿美(ことみ)と結婚し、明治29年長女(弥生)が生まれます。そして金沢四高の講師になるのですが、西田自身非常に禅への関心が高まって、京都妙心寺の半夏大接心や夏末大接心に参禅するわけです。この頃から西田の著作に流れる根本思想の形成は始まったのではないかと思います。「善の研究」で、その芽が吹き出ていると。
金沢四高を中退したのは、学校の教育理念に反抗し中途退学の道を選んだのですが、20才になるかならない四高生の時、「その内心に深く入りて善と思うこと」を貫こうとしてある種の社会的制裁を受けたからです。それ以後の東京大学選科ではエリート脱落者として苦難を強いられたこと。明治30年代から40年代に掛けての西田自身の不幸と苦悩の連続の中で禅に活路を求めていったと言うことがあります。
西田自身の苦悩と言うのは、たとえば金沢四高を中退した頃、眼病に掛かった。また*友人の自殺、寿美との*離縁、弟・憑次郎の戦死、次女の死、肋膜炎を患い、5女愛子が生まれてすぐ死亡、肋膜炎再発、学習院大学教授に就任した翌年には親友・藤岡作太郎が亡くなるわけです。西田にとって苦悩の極みであり悲しみの連続というものが西田の思想の形成と言う点で重要だと思います。
そういう西田が眈々(たんたん)として自己を語る時、皆さんは深い感銘を覚えるのです。たとえば「*或教授の退職の辞」で次ぎのように西田自身の全生涯を濃く、しかも平明に語っています。またその退職の辞で「しばしば家庭の不幸に遇い、心身共に消磨して…」と語り、友人への*手紙にも達観を述懐しています。
「回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして座した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向って一回転を為したと言えば、それで私の伝記は尽きるのである」と。この一回転に全てを含みます。西田の全てが現前してくるのです。四高中退の時以来、常に思想の根本には「逆境に絶え切れずに理想をすてるものは、精神を死に至らしめる」との考えが「人がその内心に深く探りて善と思うこと」であったのです。
苦労した人間が後にそれを語る時、自分は苦労したんだと言う言葉より、あっさりと虚飾なく言えば、心の琴線に触れてくるはずです。西田の著作や草稿、日記、書簡などを読むと、内容は単純ではなく重厚です。思索の奥深さがあるわけです。
明治34年(1901)雪門老師より「寸心居士」号を授与され、その後、京都大徳寺・広州老師に参禅し「無字の公案」(1903)を透過します。
この明治30年代から40年代半ばに掛けての時代というのは西田にとってとても大きな意義のある時代だった。結婚し子供に恵まれ、そして(子供たちに)先立たれもし、人生の喜びと人生の深い悲しみを味わいます。そういう深い悲しみの中で西田が得、形成したものは、「純粋経験」という西田の根本思想でした。それが明治44年(1911)西田幾多郎41才の偉大なる著作「*善の研究」になります。
*金田良吉…‥山本は名義上他家の姓を受けたものに過ぎない。号は晁水(ちょうすい)。
*金沢第四高等中学…‥石川県専門学校が後(明治20年)に学制が変わり「金沢第四高等中学校」に改称され官立に移管する。金沢第四高等、金沢四高は略。
*友人…‥明治24年(1891)、東京大学に入る年に川越宗孝が自殺。
*離縁…‥多分話し合いが成立したのだろう、明治30年8月に復縁する。
*或教授の退職の辞…‥上田閑照先生によれば楽友館(当時の学生会館のようなもの?)の給仕が話したものを何ものかが寄稿したものらしい。
*善の研究…‥明治44年(1911)弘道館より出版される。
「善の研究」初版の序に、純粋経験をおよそ次ぎのように言っております。
「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたいというのは、余が大分前から有っていた考えであった」と。そして、その第1編第1章冒頭「経験するというのは事実其の儘(まま)に知るの意である」と。
そして「純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別も加えない、真に経験其の儘の状態をいうのである。たとえば色を見、音を聞く刹那…(略)未だ主もなく客もない、知識と対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である」と。これが純粋経験ということです。
皆さんが「何々を経験した」と言います。哲学者の西田幾多郎は経験以外に「純粋経験」という言葉を使います。西田がいう経験ということ、純粋ということは、普通にいう経験とは全く別の経験です。つまり人間の根底に脈々と流れている意識上の経験のことです。私の、タントラヨーガの立場から言いますと人間のリアリティから迸(ほとばし)り出る意識の経験です。その意識は人間の根底に*存在するもので共通です。共通ですから存在のリアリティがあるわけです。その意識経験の積み重ねが人間を深めていくわけです。そして西田は経験を「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」と。その経験と言うのは、根底においての経験、いわゆる純粋経験を言うわけですね。
*手紙…‥晩年(昭和20年)5月31日付けの最後まで2.855通に上る。
宛名は金沢四高以来の親しい友人、学生で、次に主なものを揚げる。四高時代の山本良吉、鈴木大拙、藤岡作太郎、田部隆次、堀維孝。京大哲学科同僚の朝永三十郎、田辺元、和辻哲郎、学習院時代での生徒・原田熊雄。京大哲学科の学生たちは実に多い。植田寿蔵、久松真一、山内得立、務台理作、木村素衛、高坂正顕、西谷啓治、下村寅太郎、沢潟(おもだか)久敬など。学習院時代、続いて京都大学で学んだ近衛文磨(政治家、第1次近衛内閣・昭和12年から第三次内閣の首相)、木戸幸一、長与善郎がいる。現・岩波書店の岩波茂雄や家族宛などである。
原田熊雄は元老・西園寺公望の秘書となった人物。当時の政治的状況などは「原田熊雄日記」に残されている。元老・西園寺公望と近衛文磨とは同じ公家の出身である。
*存在…‥(D;)Zein.
そういう西田がおりました。その西田が宗教に関しても述べています。
「善の研究」第2編「実在」の第8章「自然」、第9章「精神」、第10章「実在としての神」。第3編「善」、第4編「宗教」として、また晩年の一年間だけでも四つの大きな論文を書いており、その中で「場所的論理と宗教的世界観」という思想を世に問うているわけです。
宗教学問の関係を、こう規定します。「*学問道徳の本には、宗教がなければならぬ」。そして「心の奥に返りて妄念の本を斬れ」と。すなわち「内に深く精神の平安を求めることこそ、真の幸福の条件に他ならない」というわけです。
宗教に関して言いますと、タントラヨーガは無知からの誤解を招きます。私のタントラヨーガは、宗教を超える立場です。真に自己の何たるかを探るための「心的作業」です。宗教と言うのは、さまざまな宗の教えがあり、ある意味で特殊です。ユダヤ教に始まりキリスト教、イスラム、そして仏教それぞれに独自の教えというものがあり、独自は一つの傾向を、一つの方向性を表します。一つは特殊性であり、すでに普遍的ではありません。タントラヨーガは、そういう特殊性を除き、それを超越していかなければなりません。それを単なる宗教として捉え、また拘束することは愚かなことです。
ドイツ・セントオッテリエン(ベネディクト派)Notkel.Walf院長との謁見する2-3年前、私は、地下鉄サリン事件や弁護士誘拐事件を首謀したとする「某教団」同系として非常に多くから誤解されました。警察からも1年ほど付けられ調べられたことがあります。いまはその誤解もすっかり溶けましたし、私自身を良く知れば得心できるはずです。
誤解は、理知力がないことです。未知のカテゴリー(範疇)のことを、認識も理知力もないままに特に人に流されてしまうことです。そういう民族性を、つまりエスニシティーを、鈴木大拙は強く戒め、啓発しようとします。
鈴木貞太郎大拙にも後に触れていきますが、西田晩年の日記に「古田来訪」というのがあります。その古田という人物は、私が特にお世話になった禅の思想家、仏教学者というのが正しいかな?「古田紹欽(先生)」ですが、大拙の使いとして西田を訪ねているわけです。その古田紹欽は実に愉快で豪放磊落(らいらく)な方で、面白いことがたくさんあったのです(この話しは省略)。
先の「黒板を前にして一回転した」という西田がおり、終戦の昭和20年(1945年)、尿毒症で75才という一生「一つの生」を生き切ったわけです。その西田は「東洋と西洋が一層深い根底を見い出す」ことを期待しながら命を閉じていったのだと思います。
*学問道徳の本…‥「善の研究」「哲学論文集第七」などで述べている。
さて、西田の親友・鈴木大拙は、「東洋的な見方」の中で、日本人へ啓蒙すべきこととして、次のように強く戒めている。(拙著「随筆・日本人の東洋性」Jul'97他に掲載)
日本人は本来の東洋性を失い、ただの下らない(安っぽい)感傷性に浸っていったからだ、と。本来の日本人の優れた気質、アイデンティティー(identitiy)が失われている。
それは「人に引きずられていくこと」「自分自身では一切の物事を分別できないこと」「理知の力が未熟な(十分に発達していない)ことである」と言うわけです。さらに「東洋は、二分性を徹底」していないと。その「二分性のみで人生を尽くすわけではなく、またそれで割り切れるものではない」のだが、「しかしそれでも二分性を徹底せよ」と言うのです。この二分性の不徹底が東洋の弱点だ、と。
これを克服するためには、「十分な理知の力」を持たなくてはならない。理知と言うのは知識ではなく、理を知る知恵、知性というものです。安っぽい感傷性を捨て去り、合理性、欧米的な合理性を学んだ上に、二分性を徹底したあげくに表れる知恵のことです。
この知恵がない。これがね、現代日本人の、いわゆる日本民族のエスニシティーなのです。あまりにお粗末なことです。エスニシティー(ethnicity)というのは、元来、その民族性とか、「アイデンティティーの在り方」とかを指す言葉です。日本人には古来より優れた気質と言うものがあったわけで、自分というものがはっきり確立されていた。「いま、ここにいる自分」というものを失うことはなかったのです。しかし「現代はどうか?、いまでも日本民族のエスニシティーは確立されているか?」と問われれば、私は否定せざるを得ない。何ごとの決定も自分ではなく、人に流されていく、と言うことです。精神の不安定と下らない感傷性が残り、そこに自己同一性というものはない。
その下らない感傷性を排斥するには、一つの訓練によって、行によってですが、「日本人自身が合理性、知性、理知による感傷性の制御を学ぶべきだ」と。さらに「情性を深化し(深めていくことですが)霊性的透視を(行によって)深めてゆけ」というのです。日本人の優れた精神性はどこにいったのか。日本人の東洋性は復活するか?
その大拙は、日本人の下らない感傷性を戒め、そして東洋性の復活を強く望みながら、突然の腸捻転腸閉塞のため、96才の生命を閉じていくわけです。
大拙の言う下らない感傷性に浸り、理知力のない人間が多いのです。根本的なところで、つまり根本の視点に立って見れば、実に無駄が多いわけです。全てが「*多欲不知足」であって、飽食の時代です。食べ過ぎて太ったからと言いダイエットに励む。最近、中国からのダイエット茶で死亡した方もいるわけで…。程々に食べればこのような問題は起こらない。それにしてもエネルギーの消費ばかりが多く、エントロピーが増大するだけです。
宇宙開びゃく以来、46億年と言う年数を掛けていまの状態になった。この地球が*誕生してまだ三十数億年しか経っていないわけで、そうなると地球の持つ回復力、自然の力では間に合いません。どこかでバランスを取らなくてはいけない。それが自然であり、地球の宿命です。すると近い将来、我々の地球は酸素の少ない熱いヒートアイランド、あるいは陸地のない海だけのウオーターアイランドになってしまうと警告するわけです。
たとえば食肉としての牛を考えてみましょう。牛を育てるのに牛が飲む*水はどれくらい必要か?その牛には牧草やとうもろこしなどの飼料を与えますが、その飼料用のとうもろこしを育てるのに、水は何トン必要か。他の飼料には、どのくらいの水がいるか。それを食べる人間は、牛の何十倍もの水が必要です。人間の寿命が長い分、牛どころの量ではないわけで、そういうことを考えると、石油などではなく、将来は水の取り合いが戦争の引き金になり得ます。地球上の飲用水は特に人間、動物、植物に欠かすことは出来ないものです。水の奪い合いが起こる。人間が多すぎるために、食料、水が欠乏する。水がなくなれば自分が生きるために他のものを殺りくしていくかも知れない。そういう事態が間もなく襲ってきます。そういうことが戦争の火種になりかねないのです。ここらで消費ということ、水でも何でもです、消費することを根本の視点で考えるべきだと思います。消費することが文明などではない。生まれる人間が多すぎ、寿命が延びれば自明のごとく食料は不足します。だから生産する。この繰り返しは意味がありません。と言うのは、根本問題の解決はなされていないからです。人間の愚かさは、その時の間に合わせ、応急処置にしか過ぎないことをしていることです。それで問題はない、と思い込むことですが、一時的な回避であっても真の解決ではありません。
人間は果たして何時頃まで生き延びられるか?どのくらい生き続けることができるか。大きな問題です。後何世代かで終焉するのではないか、と私は考えます。今や文明とは地球の寿命を縮めているのではないか、と。文明が地球の寿命を縮めるといったのは、恐竜のことからです。
恐竜でさえ、ジュラ紀から白亜紀後半の1億6.000万年もの間、生き続けた(6.000年前に絶滅した)というのです。人間が誕生し、1億年にも満たない。*種の起源ということから言えば、オランウータンと人間が分化(分けれて進化する)したのは、せいぜい1200万年から900万年前という説があります。人類はその程度しかまだ地球にいないわけで、人間はそんなに生き延びられるか?。高度な文明を持っている人間が果たして1億6.000万年より長く、恐竜の世界に文明などはなかったと思いますが、その恐竜より長く生きられるだろうか?。私は「生きられない」「No」と否定せざるを得ない。
それは西田の言う「*社会的生の価値判断」と同様、多くの人間は根本的なところで、価値判断が狂っており、根源的課題への取り組みが過っているからだと。終局には理に疎(うと)いからです。さも文明が発達したように思っているのでしょうが、実はそれほどとは思いません。機械的、物理的科学的に限定すれば、ものが発達し便利さを享受しているのは確かです。医学も進歩しゆえに人間の寿命も延びました。しかし人間が思う文明とは、たとえば*ファンダメンタルなところで化粧やファッションを見ても、太古時代、あるいはそれ以後のエジプト文明など4大文明と大して変わっていない。
化粧はその時代と同じ、ネックレスや首の輪と言えるようなアクセサリー、耳に差し込むピアス、唇や眉毛に穴を開けて付ける飾りもある国の部族と同じ伝統というか伝承で、少しも変わっていないことです。結局ぐるぐると廻り続け、やがて帰納し、帰巣(きそう)しているだけのことです。帰巣は動物の本能です。発達したとは自慢できないでしょう、これでは。
今日はこれで終わります。
*不知足…‥仏教の「少欲知足」に反するのを隠喩的に言った言葉。
*誕生…‥地球が誕生した説には諸説がある。宇宙開びゃく論も確かではないが、進化と言うことから考えて私は「誕生38億年前」説を支持する。
*水…‥牛肉1キロ育てるのに水4トンだと言う説がある。とうもろこし1キロを育てるには2トンだと。
*種の起源…‥ダーウインの進化論をいうのではない。一般的な学説では、テナガザルからの分化はもっと以前の1600万年前のことらしい。
*社会的生の価値判断…‥西田の汎用する用語。ここでの説明は省く。他を参照。
*ファンダメンタル…‥foundmental.一般的には経済用語に使うが、いまは「基礎的」「根本的」の義。
●追補;
次ぎの「自分の思いのままに成就」は時間的な余裕がなく講演することはなかったが、興味深い問題なので次頁に載せた。
ある時、「自信」ということを説いたことがあります。しかし自信とは?、その自信ということを真に掴み切れないから「自信がない、自信を持てない」と言うのがあったわけです。で、今回は学問的な側面から、それを見詰めたらどうなるか…。そこで量子学的に、あなたの「信じることが成就する」その根拠を解き明かしたいと…。
量子学(物理学の新分野)では、
「物質は粒子であり、また波である」と言います。量子レベル(つまり原子や分子くらい)のミクロの大きさでは、物質は粒子としての性質と、波としての性質を持っている、というわけです。それが「不確定性原理」です。人間の身体部分も波(の性質)であるわけです。我々は波です。我々は本当に波なのか?
それを解く前にウエルナー・*ハイゼンベルグの「不確定性原理」を見ていきましょう。「不確定性原理」とは、原子や分子レベルのものを、いくらきちんと観測して、速度と位置を調べようとしても、それは不可能だ、と。観測したとたん、動きを変えてしまうというのです。つまり「存在は不確定にしか解らない」ということです。
「位置をきちんと観測すると、運動が不確定になり、そして運動をきちんと観測すると、位置が不確定になる」からです。
それは「私たち人間は、実在の全体を一時(いちどき)に認識することは出来ない。いつも一つの側面からしか認識できない」と。そうであれば「いずれの仕方であるにせよ、認識しないと(言うことは)、存在しない」と言うことになります。実在の認識と存在は同じです。
この「実在」という考え方は、ジャン・ポール・*サルトルや*ボーヴォアールの「実存主義」や*メルロ・ポンティに大きな影響を与えたのです。
ハイゼンベルグの「不確定性原理」から発展し、1970年代に「ベルの定理」が生まれました。「実在は非局所的である」と。これはある面で恐ろしい定理です。つまり決まった所(実在の場所)がない、つまり「あなた次第だ」ということになります。「何でもあなた次第で変わる」と。
*ハイゼンベルグ…‥D(;)Werner Karl Heisenberrg.1901-76.ドイツの物理学者。1927年、「不確定性原理」を発表。コペンハーゲン大学でボーアの指導を受ける。ハイゼンベルグの研究は本来、行列(マトリックス)力学の領域で、粒子説の立場になる。また物理学では物理学者シュレディンガーの影響は大で、シュレディンガーは波動力学の領域から波動説に立つ。
*メルロ・ポンティ…‥(F;)Merleau Pnty.1908-61.フランスの哲学者。すでに「さとりへの道」、会報で概説してある、それを参照。サルトルとともに「無神論的実在論主義」運動で指導的役割を果たした。
*サルトル…‥(F;)Jean-Paul Sartre.1905-80.フランスの哲学者。「存在と無」の中で、実存主義から現象学的存在論を展開した。
*ボーヴォアール…‥(F;)Beauvoir.フランスの女流哲学者。サルトルの哲学に賛同し、協力して「無神論的実在論主義」を開いた。これは一つの時代の潮流となった思想。
「私は何?」と聞かれたら、むろん私は波なのですが、「私は単にここに居るだけではなく、この瞬間、全宇宙に拡がっていくのだ」と言うことになります。この瞬間、全宇宙に拡がっていくとなると、いろいろな問題が起きます。
そしてまたハンガリーの数学者、ジョン・フォン・ノイマンは「観測者が対象に注意を向けた途端、それまで1なのか?2なのか?解らなかったものが、1か2かのどちらかの状態に決まってしまう」と言ったのです。
こういう正当な根拠があって「自らを信じる」ことは持てるのであり、それは成功する、成就するのだと言うことです。